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8

東の森の奥で何かが動いた。


 ユートは窓から離れなかった。


 暗闇の中では何がいるのか見えない。ただ、さっきまで聞こえていた灰狼の遠吠えが途切れたことだけは分かった。


 静かすぎる。


 それが逆に怖かった。


 ユートはもう一度ステータスを開く。


【警告】


【未確認対象が接近しています】


【推奨行動――逃走】


「……逃げろってことか」


 今までのステータスは、自分の身体の数字を表示するだけだった。それが初めて、自分の行動について直接何かを示している。


 ユートは少し迷った。


 外を確認したい。


 何がいるのか知りたい。


 だが、表示された言葉ははっきりしていた。


 逃走。


 ユートは木剣を手に取った。


 戦うためではない。


 もし何かが近づいてきたとき、何も持っていないよりはいい。


 玄関へ向かう。


 扉を開ける。


 冷たい夜風が顔に当たった。


 東を見る。


 何も見えない。


 だが、遠くの森の中で木が一本だけ大きく揺れた。


 次の瞬間、別の木が揺れる。


 さらに一つ。


 何かがこちらへ近づいている。


「……来る」


 ユートは走った。


 東ではなく、西へ。


 街の方向へ向かう。


 最初の数十歩は順調だった。


 しかし、すぐに後ろから草を踏む音が聞こえてきた。


 ザッ。


 ザッ。


 一定の間隔で近づいてくる。


 速い。


 ユートは振り返らなかった。


 走りながら周囲を見る。


 右側に大きな岩。


 左側には木が密集している。


 正面には街へ続く道。


 そのまま走ればいい。


 そう思った瞬間、右側の草むらが大きく揺れた。


「っ!」


 ユートは反射的に左へ飛んだ。


 次の瞬間、目の前を灰色の影が横切った。


 灰狼だった。


 着地した狼はすぐに振り返る。


 その目がユートを捉えた。


 距離は十メートルほど。


 ユートは木剣を構えた。


 だが、灰狼はすぐには飛びかかってこなかった。


 低い姿勢でこちらを見ている。


 その後ろ。


 さらに一匹。


 そしてもう一匹。


「三匹……」


 ユートは後退した。


 昨日ミレイから聞いた話を思い出す。


 灰狼は群れになると危険。


 一匹なら戦える可能性があっても、複数なら話が違う。


 ユートは木剣を握り直した。


 ここで戦うべきか。


 いや。


 違う。


 逃げる。


 そう決めた。


 ユートは灰狼から目を離さず、一歩ずつ後ろへ下がる。


 灰狼の耳が動いた。


 その瞬間、一匹が飛び込んできた。


 ユートは身体を斜めへ動かした。


 爪が服をかすめる。


 だが、当たらない。


「避けられた……!」


 ユートはそのまま横へ走った。


 後ろから別の狼が迫る。


 足音。


 呼吸。


 草の揺れ。


 ユートは耳と目を使って相手の位置を探った。


 右。


 来る。


 ユートは左へ踏み出した。


 狼が横を通り過ぎる。


 その瞬間、ステータスが視界の端に浮かんだ。


【回避行動を確認】


 ユートは驚いた。


 しかし、止まらない。


 走る。


 振り返る。


 灰狼は追ってきている。


 三匹。


 まだいる。


 ユートは道を外れた。


 街道をそのまま走るより、森の木々を利用したほうがいい。


 そう考えた。


 一本目の木を左へ。


 二本目を右へ。


 三本目の木の陰へ。


 灰狼が直線的に追ってくる。


 速度は明らかに向こうのほうが速い。


 だが、木が邪魔になっている。


 ユートはその隙に距離を取る。


「これなら……」


 しかし、次の瞬間だった。


 前方の木陰から灰狼が飛び出した。


「なっ……!」


 待ち伏せ。


 ユートは急停止した。


 灰狼の身体が目の前に迫る。


 右へ。


 いや、間に合わない。


 左。


 ユートはとっさに身体を沈めた。


 狼の爪が頭上を通過する。


 そのまま地面へ転がった。


 肩を強く打った。


「痛っ……!」


 だが、立てる。


 すぐに起き上がる。


 灰狼が振り返る。


 もう一匹が後ろから来ている。


 挟まれた。


 ユートは周囲を見る。


 左に細い木。


 右に斜面。


 正面に灰狼。


 後ろにも灰狼。


 逃げ道がない。


 木剣を構えた。


 ここで戦うしかない。


 そう思った。


 だが、その瞬間。


【推奨行動――逃走】


 また表示された。


「……逃げろって言うのかよ」


 ユートは苦笑した。


 そして視線を動かした。


 斜面。


 急だが、下へ続いている。


 灰狼は平地では速い。


 なら。


 ユートは右へ走った。


 斜面へ飛び込む。


 足元の土が崩れた。


「うわっ!」


 身体が滑る。


 だが、転ばない。


 手を地面につきながら斜面を下る。


 後ろから灰狼が追ってくる。


 しかし、狼も足場が悪い。


 速度が落ちた。


 ユートはその隙に距離を取った。


 斜面の下には小さな川があった。


 水深は浅い。


 ユートはそのまま川へ入った。


 冷たい水が足を濡らす。


 川の中を少し進み、反対側へ渡る。


 振り返る。


 灰狼たちは斜面の上で止まっていた。


 追ってこない。


 ユートはその場に座り込んだ。


 息が苦しい。


 胸が大きく上下している。


 手も震えている。


「……怖かった」


 今までの戦いとは違う。


 ゴブリンとの戦いでは、自分から攻撃することしか考えていなかった。


 今回は違う。


 相手が自分より速い。


 数も多い。


 しかも、待ち伏せまでしてきた。


 勝てる相手ではなかった。


 だから逃げた。


 そして、生きている。


 ユートはしばらく川の水を眺めていた。


 やがて立ち上がる。


 服は泥だらけだった。


 肩も痛い。


 足にも擦り傷がある。


 それでも歩ける。


 街へ戻る。


 ギルドへ着いたのは、日が昇り始めた頃だった。


 扉を開けると、早朝の受付にミレイがいた。


「ユートさん……?」


 ミレイが目を見開く。


「どうしたんですか、その格好」


「灰狼に追われました」


「……!」


 ミレイがすぐに立ち上がる。


「怪我は?」


「少し擦っただけです」


「本当に?」


「はい」


 ミレイはユートの肩や腕を確認した。


 大きな傷がないことを確認すると、ようやく息を吐いた。


「よかった……」


 ユートは椅子に座った。


「三匹いました」


「三匹……」


「たぶん、もっといたと思います」


 ミレイは黙って聞いている。


「それと、待ち伏せされました」


「待ち伏せ?」


「はい」


 ユートは自分が逃げた経路を説明した。


 ミレイは地図を見ながら話を聞く。


「……その動きなら、かなり近くに群れがいる可能性があります」


「やっぱり」


「ユートさん」


 ミレイが真剣な顔で言った。


「今日はもう東へ行かないでください」


「分かりました」


「本当に分かりました?」


「はい」


 ユートは素直に頷いた。


 そして少し考えてから聞く。


「ミレイさん」


「はい」


「逃げるのって、冒険者として悪いことですか?」


 ミレイは少し驚いたような顔をした。


 それから、静かに首を横に振った。


「いいえ」


「……」


「逃げるべき相手から逃げるのは、立派な判断です」


 ミレイはそう言って微笑んだ。


「生きて帰ってくれば、また明日挑戦できますから」


 ユートはその言葉を聞いて、胸の奥が少し軽くなった。


「……そうですね」


 家に戻ったユートは、今日は鍛錬をしなかった。


 木剣を見る。


 いつもならすぐに手に取る。


 だが今日は触らない。


 代わりにノートを開いた。


 そして今日の出来事を一つずつ書き出していく。


『灰狼三匹』


『正面から戦わない』


『相手の動きを見る』


『木を利用する』


『斜面では相手も速度が落ちる』


『川を使って距離を取る』


 最後に書く。


『逃げることは負けではない』


 その文字をしばらく見つめる。


 そして夜。


 ステータスを開いた。


【レベル】1

【経験値】19/100


【HP】11.2

【MP】6.1


【筋力】4.70

【体力】5.02

【敏捷】5.40

【知力】6.80

【精神】6.30


【剣術】Lv.1

【走術】Lv.1

【魔力操作】Lv.0

【気配察知】Lv.0


【称号】なし


【???】


 しばらく待つ。


 表示が変わった。


【剣術経験値 3/100】


【知覚経験値 4/100】


【回避経験値 1/100】


 ユートはそれぞれの数字を見つめた。


 昨日までの自分なら、数字が増えたことだけを喜んでいたかもしれない。


 でも今日は違った。


 この数字が何によって増えたのかを考える。


 剣術は、昨日までの鍛錬。


 知覚は、周囲を見て状況を判断したこと。


 回避は、実際の攻撃を避けたこと。


 努力には、それぞれ違う意味がある。


 そのとき、ステータス画面が揺れた。


【成長条件――達成】


【継続記録:四日】


【報酬を選択してください】


 三つの選択肢が表示される。


【身体】


【技術】


【知覚】


 ユートはしばらく見つめた。


 昨日は【技術】を選んだ。


 今日は、逃げるために身体を限界まで動かした。


 走った。


 斜面を下った。


 川を渡った。


 何度も踏みとどまり、また走った。


 今の自分に必要なのは、もっと強く動ける身体だ。


「……身体」


 ユートが指を触れる。


【報酬――身体】


【身体成長値+1】


 新しい表示が浮かんだ。


【身体成長値 1】


 ユートは首を傾げた。


「身体成長値……?」


 筋力を見る。


【筋力 4.70】


 変わっていない。


 体力も。


【体力 5.02】


 変化していない。


 敏捷も変わらない。


 ユートは少し考えた。


「すぐに強くなるわけじゃないのか」


 少しだけ残念だった。


 だが、その感情はすぐに消えた。


 今日の努力が、今日だけで終わらない。


 これから鍛錬を続ければ、この数字が身体の成長に繋がっていくのかもしれない。


 そう考えると、不思議と嬉しかった。


 ユートはノートを開いた。


『身体成長値 1』


 その下に書く。


『今はまだ身体の数字に変化なし』


 そして、少し考えてからもう一行。


『でも、これからの努力を支える数字かもしれない』


 ペンを置いた。


 身体が強くなるまでには時間がかかる。


 剣が上手くなるにも時間がかかる。


 周囲を見られるようになるにも時間がかかる。


 きっと、自分が思っているよりずっと長い。


 それでもいい。


 今日一日で強くなれなくても、明日また鍛えればいい。


 ユートはステータスを閉じた。


 その直後、画面の一番下に新しい文字が浮かんだ。


【身体成長値を確認】


【次回成長条件――身体鍛錬】


「……身体鍛錬?」


 ユートは目を細めた。


 今までとは少し違う。


 ただ努力を続けるだけではなく、何をすれば成長するのかを自分で考えなければならない。


 ユートは立ち上がった。


 明日の朝。


 何をするか。


 もう決めている。


「もっと強く走ろう」


 そして、もっと強くなる。


 そう思いながら窓の外を見る。


 東の森は、もう暗闇の中に沈んでいる。


 灰狼の姿は見えない。


 だが、あの森の奥にはまだ、自分の知らないものがいる。


 ユートは少しだけ怖かった。


 それでも、昨日より一つだけ強くなった自分を信じることにした。


 そして翌朝。


 ユートが走り始めて数分後。


 ステータス画面に、見たことのない数字が表示された。


【身体成長値――反応開始】


【成長効率を計測します】


 ユートは走りながら、その文字を見つめた。


「……計測?」


 そして次の瞬間。


【昨日までの身体能力を基準として、鍛錬効果を算出します】


 ユートは初めて知ることになる。


 努力そのものだけではなく、「どんな努力をするか」によって、成長する速度まで変わるということを。

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