7
ユートは地面に残された爪痕から目を離せなかった。
土に深く食い込んだ三本の線は、昨日見た灰狼の足跡とは明らかに違っている。灰狼のものより大きく、爪の先が地面を抉った跡まで残っていた。
ユートはすぐには近づかなかった。
昨日までの自分なら、珍しいものを見つけたというだけで近づいていたかもしれない。
だが今は違う。
まず周囲を見る。
草の倒れ方。
木の枝。
地面に残された足跡。
そして音。
風が草を揺らしている。
鳥の鳴き声も聞こえる。
魔物の気配はない。
「……でも、いないとは限らない」
ユートは一歩下がった。
爪痕に近づくのではなく、その周囲を遠くから確認する。
少し離れた場所に、折れた枝があった。
さらにその先には、何かを引きずったような跡が続いている。
ユートは目を細めた。
「こっちから来て……」
足跡を追う。
十歩。
二十歩。
三十歩。
そこで立ち止まった。
草が不自然に倒れている。
その中央には、小さな赤黒い染みが残っていた。
血だ。
ユートはしゃがみ込んだ。
まだ乾ききっていない。
新しい。
だが、周囲に死体はない。
「……何かを襲った?」
ユートは周囲を見渡した。
そこで、遠くの茂みが揺れた。
ユートの身体が反応する。
右手が腰の剣へ伸びた。
呼吸を止める。
草の向こう。
何かいる。
ユートは足を一歩引いた。
そして、昨日練習した動きを思い出す。
後ろへ逃げるのではない。
斜めへ。
足を残す。
身体を固めない。
相手の肩と足を見る。
茂みがさらに揺れた。
ユートは剣を抜いた。
数秒。
何も出てこない。
風だった。
ユートは大きく息を吐いた。
「……びっくりした」
額に手を当てる。
心臓が速く動いている。
敵が現れたわけでもないのに、身体は勝手に緊張していた。
ユートはそのことを覚えておくことにした。
実際の戦いでは、攻撃される瞬間だけが怖いわけではない。
何かがいるかもしれないという時間も怖い。
なら、そこにも慣れなければならない。
そう考えたときだった。
【知覚経験値 0/100】
「……?」
一瞬だけ、見慣れない表示が浮かんだ。
ユートは目を瞬かせた。
しかし、すぐに消えてしまう。
「知覚……?」
昨日までそんなものは表示されなかった。
ユートは急いでノートを取り出した。
『大きな爪痕を発見』
『血痕を発見』
『敵がいると思ったが風だった』
『知覚経験値 0/100?』
最後に疑問符を付ける。
どうやら今日の行動も、何かの記録になっているらしい。
ただ、何をすれば数字が増えるのかは分からない。
ユートはもう一度周囲を見渡した。
今度はさっきより細かく見る。
草。
木。
地面。
遠くの岩。
風向き。
鳥の位置。
何も見逃さないようにする。
すると、右手側の草が一部分だけ倒れていることに気づいた。
近づいてみる。
そこには、細長い灰色の毛が一本落ちていた。
「灰狼……?」
ユートは毛を拾い上げた。
昨日見た灰狼と同じ色だ。
しかし、その毛はかなり長い。
そして太い。
灰狼よりも大きな何かがいた。
そう考えるのが自然だった。
ユートはそれ以上進むのをやめた。
毛だけを持ち帰ることにする。
危険を感じたら戻る。
昨日、ミレイに言われたことを思い出した。
冒険者にとって大切なのは、魔物を倒すことだけではない。
生きて帰ることだ。
ユートは草原を引き返した。
途中で薬草を十本集める。
今日はそれ以上奥へ進まなかった。
ギルドに戻ると、ユートは採取した薬草を渡してからミレイのところへ向かった。
「ミレイさん」
「はい。どうしました?」
「これ、何か分かりますか?」
ユートは灰色の毛を差し出した。
ミレイはそれを受け取ると、指先で確認する。
しばらく黙っていた。
「……灰狼の毛ですね」
「やっぱり」
「でも、これ……少し長いですね」
ミレイの表情が変わった。
「どこで見つけました?」
「東の草原です」
「どの辺りですか?」
ユートは自分が見つけた場所を説明した。
ミレイは地図を広げる。
そして東の草原のさらに奥を指で示した。
「ここから先は、あまり一人で入らないでください」
「何かいるんですか?」
「最近、灰狼の群れが少しずつ西へ移動しているんです」
「群れ……」
「ええ。灰狼自体はそこまで珍しい魔物ではありません。でも、群れになると話が変わります」
ミレイは地図を指で叩いた。
「一匹なら逃げられる冒険者でも、五匹、十匹になると逃げ切れないことがあります」
ユートは黙って聞いていた。
「それと、今朝から別の報告もあります」
「別の?」
「大きな魔物の足跡を見たという報告です」
ユートの目が変わった。
「……灰狼より大きい?」
「そうです」
「何の魔物か分かっているんですか?」
ミレイは首を横に振った。
「まだ分かっていません」
ユートは少し考えた。
自分が見た爪痕。
血痕。
灰色の毛。
そして、今の話。
全部が繋がっているように思えた。
「その魔物は……危険ですか?」
「分からないからこそ危険なんです」
ミレイはいつもより真剣な顔をしていた。
「ユートさん。あなたはまだ冒険者になったばかりです。無理に強い魔物を探さなくていいんですよ」
「はい」
「本当に?」
「はい」
ユートは頷いた。
だが、胸の中には別の感情が生まれていた。
怖い。
当然だ。
自分はまだレベル一。
剣術もレベル一。
昨日まで知らなかったことばかりだ。
だからこそ、知らないものを知りたいと思った。
強くなるためには、自分が何に負けるのかを知らなければならない。
ただし、それは戦って確かめる必要はない。
見て、考えて、準備することもできる。
ユートはそう考えながら家へ帰った。
その日の鍛錬は軽くした。
木剣を三百回。
その後、昨日と同じ回避練習を五十回。
ただし、今日は速度を上げなかった。
相手の動きを見る。
肩が動く。
次に腰。
足が踏み出される。
そこから身体を動かす。
昨日よりも少しだけ自然に動ける。
何度か失敗しながら、ユートは繰り返した。
そして最後に、ゆっくり木剣を振る。
攻撃。
斜めに移動。
構える。
また攻撃。
斜めに移動。
構える。
少しずつ身体が覚えていく。
夜。
ユートは布団の上でステータスを開いた。
【レベル】1
【経験値】19/100
【HP】11.2
【MP】6.1
【筋力】4.70
【体力】5.02
【敏捷】5.40
【知力】6.80
【精神】6.30
【剣術】Lv.1
【走術】Lv.1
【魔力操作】Lv.0
【気配察知】Lv.0
【称号】なし
【???】
しばらく待つ。
すると、昨日と同じように文字が浮かび上がった。
【剣術経験値 3/100】
「……増えた」
ユートは小さく呟いた。
昨日は二。
今日は三。
たった一つ。
でも、確実に増えている。
そして、その下に新しい表示が現れた。
【知覚経験値 1/100】
ユートは目を見開いた。
「こっちも……」
今日やったことを思い出す。
足跡を見つけた。
血痕を見つけた。
毛を見つけた。
茂みの揺れを見た。
風と敵を見間違えた。
そして、周囲を注意深く観察した。
その結果が、この数字なのかもしれない。
ユートはノートを開く。
新しいページに書いた。
『剣術経験値 2→3』
『知覚経験値 0→1』
少し考えてから、その下に書く。
『強くなるということは、敵を倒すことだけではない』
さらに一行。
『知らなかったことを知ることも、強くなること』
ペンを置く。
今日の自分は、昨日の自分より少しだけ多くのことを知っている。
それだけでもいい。
そう思えた。
だが、その直後。
ステータスの一番下にある【???】が揺れた。
【次の成長条件】
【観察】
【回避】
【???】
三つ目だけが、まだ読めない。
「……また増えた」
ユートは画面を見つめた。
そして気づく。
最初に表示された【???】は、少しずつ形を変えている。
何かが開かれている。
努力するたびに。
知らなかったことを知るたびに。
少しずつ。
ユートはノートを閉じた。
「じゃあ、明日は……観察と回避をもっとやろう」
そのときだった。
窓の外から、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
一つではない。
二つ。
三つ。
ユートはゆっくり窓へ近づいた。
東の空は暗い。
何も見えない。
それでも、遠くから聞こえる声は少しずつ近づいているように思えた。
そして最後に、他の遠吠えとは明らかに違う低い声が響いた。
――グルルルル……。
ユートの背中に、冷たいものが走る。
ステータス画面が勝手に開いた。
【警告】
【未確認対象が接近しています】
ユートは息を止めた。
そして、初めて見る表示がその下に浮かび上がった。
【推奨行動――逃走】
その瞬間、東の森の奥で何か巨大な影が動いた。




