10
朝。
ユートは目を覚ますと、いつものように木剣を手に取った。
まだ外は薄暗い。
窓を開けると、冷たい空気が部屋の中へ流れ込んできた。
木剣を握る。
一振り。
二振り。
三振り。
いつもの一〇〇〇回。
けれど、昨日までと同じことをするつもりはなかった。
灰狼に追われたときのことが、頭から離れない。
三匹。
自分は逃げた。
それが正しい判断だったことは分かっている。
もし正面から戦っていたら、今こうして朝を迎えられていたかどうかも分からない。
だからこそ、思う。
逃げるだけではなく、いつか自分の力で戦えるようになりたい。
木剣を振る。
しかし、その感覚に以前とは違う違和感があった。
木剣は軽い。
振りやすい。
身体に無理がない。
だからこそ、実際の戦いとは違う。
ゴブリンと戦ったとき。
相手が持っていた短剣を見た。
あのとき自分の肩をかすめた刃の鋭さを、今でも覚えている。
木剣と鉄の剣では、同じ一振りでも違う。
「……剣が必要だ」
そう思った。
今まで木剣しか使っていなかったのは、単純に本物の剣を買う余裕がなかったからだ。
それに、最初から必要だとも思っていなかった。
冒険者になったばかりで、まだ自分がどこまで戦えるのかも分からない。
木剣で基本を覚えることを優先していた。
けれど、灰狼との一件で考えが変わった。
逃げることを覚えた。
相手を見ることも覚えた。
地形を利用することも覚えた。
なら次は。
「戦うための準備」も必要だ。
ユートは最後の一振りを終えると、木剣を壁に立てかけた。
その日の朝は、五キロを走った。
いつものように走る。
ただ、昨日までとは少しだけ違う。
一定の速度で走り続けるのではなく、途中で速度を上げ、落とし、再び上げる。
身体にかかる負荷を確かめながら走る。
五キロを走り終えたとき、ユートは息を整えながら立ち止まった。
視界の端に文字が浮かぶ。
【現在の鍛錬内容――走行】
【走行距離――5.0km】
【身体負荷――中】
【鍛錬内容の適合度――高】
【成長効率――計測中】
やがて表示が変化した。
【今回の有効鍛錬量――0.6】
ユートは表示を見つめた。
昨日までの身体鍛錬蓄積は1.4。
そこに今日の0.6が加わる。
【身体鍛錬蓄積――2.0 / 2.0】
「……届いた」
次の瞬間。
【身体鍛錬条件――達成】
【条件達成を確認】
【身体成長値が上昇します】
【身体成長値――1】
【身体成長値+1】
【身体成長値――2】
ユートは自分の身体を見た。
特に変化はない。
腕が太くなったわけでもない。
脚が急に軽くなったわけでもない。
息が以前より楽になったわけでもない。
「……すぐに強くなるわけじゃないのか」
すると、文字が続いた。
【身体成長値――2】
【身体成長効率――上昇】
【次回ステータス上昇までの必要成長量――減少】
【ステータス上昇時の反映量――増加】
ユートは考え込んだ。
身体成長値が増えることで、身体そのものが今すぐ強くなるわけではない。
これから鍛錬を続けたとき、ステータスが上昇するまでの間隔が短くなる。
そして、ステータスが実際に上昇したときには、以前より大きく成長する。
「……成長しやすくなるってことか」
だが、そこで一つ疑問が残った。
ステータスが上がる。
それは確かに成長だ。
けれど、例えば敏捷が五から十になったとしても、自分の運動神経が二倍になるわけではないだろう。
数字はあくまで、身体の変化を表している。
筋肉。
神経。
身体操作。
バランス。
反応。
そういったものをまとめて、一つの数字として表示しているだけなのかもしれない。
「数字だけ見ても、強さは分からないか」
ユートはそう考えた。
だからこそ、実際に身体を動かして確かめる必要がある。
そして。
そのためにも。
やはり剣が必要だった。
◇
鍛錬を終えたユートは、冒険者ギルドへ向かった。
「おはようございます、ユートさん」
受付に座っていたミレイが顔を上げる。
「おはようございます」
依頼を確認しながら、ユートは昨日のことを思い出していた。
灰狼。
三匹。
逃げ切れたからよかった。
けれど、もし依頼の途中で遭遇していたら。
もし逃げ道がなかったら。
木剣しか持っていない今の自分では、どうすることもできない可能性が高い。
「ミレイさん」
「はい?」
「武器について聞きたいんですが」
ミレイが少しだけ首を傾げた。
「武器ですか?」
「はい。本物の剣を買おうと思っています」
「ああ……」
ミレイはユートの腰を見る。
そこにはいつもの木剣。
「そろそろ必要だとは思います」
「やっぱりそうですか」
「灰狼の件もありましたし」
ミレイは少し考えてから続けた。
「ただ、無理に高いものを買う必要はありませんよ」
「高いもの?」
「武器は上を見ればいくらでもあります。魔物の素材を使ったものや、魔法が付与されたもの、名のある鍛冶師が作ったもの……」
ユートは首を振った。
「そこまでは必要ないです」
「そう思います」
ミレイは笑った。
「今のユートさんなら、まずは普通の鉄剣で十分でしょう」
「普通の鉄剣……」
「町の南通りに武器屋があります。冒険者向けの中古品も扱っているので、見てみるといいですよ」
「ありがとうございます」
ユートは礼を言ってギルドを出た。
◇
南通り。
教えられた店を探して歩く。
しばらくすると、木製の看板が目に入った。
『武器屋 グレン』
扉を開ける。
カラン、と小さな鐘が鳴った。
「いらっしゃい」
店の奥から、短い髭を生やした大柄な男が顔を出した。
壁には剣や槍、盾が並んでいる。
木剣とは違う。
本物の武器。
刃の光を見ただけで、ユートは少し緊張した。
「剣を探しているんですが」
「予算は?」
いきなりだった。
ユートは少し考える。
「……あまり高いものは買えません」
「なら中古だな」
男は即答した。
「新人冒険者が最初から高級品を持つ必要はない。壊したときに泣くぞ」
「それは困ります」
「だろ?」
男は笑った。
そして壁から何本か剣を取り出して、台の上に並べた。
「こいつは安いが、少し重い」
一本。
「こいつは軽い。ただし刃が薄いから扱いには気をつけろ」
二本目。
「こいつは少し高いが、状態はいい」
三本目。
ユートは一本ずつ手に取った。
重さ。
柄の太さ。
握ったときの安定感。
剣を持ったまま、軽く構える。
「……これ」
最後に手に取った一本で、ユートの手が止まった。
派手さはない。
装飾もない。
刃には細かな傷がある。
けれど、大きな欠けはない。
柄も握りやすい。
「こいつか」
店主が尋ねる。
「はい」
「見る目がある、とはまだ言えんな」
「……」
「だが、悪くない選択だ」
店主は剣を受け取ると、刃を確認した。
「前の持ち主がかなり使っていた。だから安い。だが手入れはされてる。新人が最初に持つには十分だ」
「いくらですか?」
告げられた金額を聞いて、ユートは財布を確認した。
買える。
買ってしまえば、しばらく無駄遣いはできない。
けれど。
ユートは剣を見る。
灰狼。
ゴブリン。
木剣。
今までの戦いを思い出す。
「……これにします」
「毎日使うなら、買った後も手入れを覚えろ」
「分かりました」
「それと」
店主が剣を差し出した。
「剣は振れば強くなるってもんじゃない」
ユートは剣を受け取る。
「身体の使い方を覚えろ。足、腰、肩。全部だ」
「はい」
「それができるなら、この剣でも十分戦えるようになる」
ユートは頷いた。
「ありがとうございます」
店を出る。
腰には、初めて自分で買った鉄の剣。
歩くたびに重みを感じる。
木剣とは違う。
これは、本当に人を傷つけられる武器だ。
その事実を、ユートは忘れないようにしようと思った。
◇
翌朝。
ユートはいつものように木剣を手にした。
一〇〇〇回の素振りを始める。
ただし、昨日までとは少し違う。
足の位置。
腰の向き。
肩の力。
振り終わった後の姿勢。
一振りごとに確かめる。
百回。
二百回。
疲労が溜まったところで、一度止める。
以前なら、そのまま続けていた。
だが今は違う。
回数を増やすことだけが鍛錬ではない。
身体にとって意味のある負荷を与えること。
それが、身体鍛錬蓄積につながる。
そして、剣を振る目的が変われば、鍛錬としての意味も変わる。
ユートは木剣を置き、鉄の剣を抜いた。
構える。
一歩。
踏み込む。
振り下ろす。
止める。
重い。
木剣とは全く違う。
だが、その重さを感じたことで、自分の身体のどこを使っているのかがよく分かった。
「……なるほど」
もう一度。
今度は足から動かす。
さらにもう一度。
身体全体を連動させる。
剣を振り終えたところで、ユートは小さく息を吐いた。
視界の端に表示が浮かぶ。
【鍛錬内容――剣術】
【身体鍛錬としての適合度――低】
【剣術鍛錬としての適合度――高】
ユートは少し笑った。
「そういうことか」
同じ「剣を振る」という行動でも、今の自分が何を目的にしているかによって、積み重なるものが違う。
身体を鍛えるなら、身体に適した負荷が必要。
剣術を鍛えるなら、剣術として意味のある練習が必要。
ただ疲れればいいわけではない。
ただ回数を増やせばいいわけでもない。
ユートは剣を鞘に戻した。
今日もまだ、自分は強くなったとは言えない。
身体成長値は2になった。
けれど、それだけで身体能力が倍になったわけではない。
今までと同じ自分。
それでも。
少しだけ、成長しやすい自分になった。
それで十分だった。
ユートは机に向かい、今日の記録をつける。
『五キロ走った』
『身体鍛錬蓄積――1.4→2.0』
『身体鍛錬条件――達成』
『身体成長値――1→2』
『鉄剣を購入』
『同じ鍛錬でも、目的によって意味が変わる』
少し考えてから、最後に一行を書き足した。
『強くなるためには、ただ努力するだけじゃ足りない』
『どう努力するかを考える』
筆を置く。
窓の外を見る。
東の空には、今日も小さな星が浮かんでいた。
ユートはまだ知らない。
自分が今始めた「鍛錬の見直し」が、これから先の成長を大きく変えていくことを。




