第三章 記憶、記録(4)
『私は生かされた。あの男は死に、シャーロット君は去り、私にはもう何も残っていなかった。だが、私の研究室に、彼女が残っていた。エレナ。あの男にいいように利用され、傷つき、死を待つだけだったはずの彼女。エレナは、傷つきながらも、そこに残ることを選んだ。彼女自身の意志はもはや確認のしようがなかったはずなのに。だから、私は、もう一度だけ、自分を試すことにした。救いを求める彼女に、手を伸べることにした。彼女のブレインインターフェースを再設定し、彼女を呼び起こした。古き記憶と機械の記憶を取り戻した彼女は、彼女自身の行った残虐をひどく悔いていた。悔いるべきは私なのに。だから、私は、彼女に新しい目的を設定してやらねばならぬ、と思い至る。生きることを命じられた私はそれをやらねばならぬのだ』
ディーンが手に取った手記を開き、前に読んだその節から読み始める。
博士の懺悔と贖罪こそが、エレナが生きる――生きなければならない、呪いだった。
『エレナが死んだ。高熱を発し意識を失ってからはあっという間のことだった。あの事件から八年。あの接続強度で手術を受けながらもよくがんばったものだと思う。これで、私は人生の目標を全うした、そう思い、ほっとした気持ちがあったことは事実だ。だが、彼女の全人格と魔人としての能力を受け継いだ黒い箱――エクスニューロ――は、まだここにある。エレナはまだ生きている。かつて、私はエレナを生かすことだけを目標とし、エレナには生きることだけを目標として設定した。だが、もはや死んでしまったエレナ――しかし箱の中で生き続けるエレナに、何を目標として与えるべきか。私は、エレナに永遠に生きていてほしいと、思っていることに気づいた。それは私の罪を永遠に語り継ぐため』
そして、最初のエレナが死んだ。
彼は、エレナに本当の目標を与えなければと考えた。
エレナを生かそうとした。
彼の心にある監獄の中で、エレナだけを生かそうとしていた。
それは、ただ、彼にはそれしか残っていなかったから。
エレナが彼のすべてだったから。
……しかし。
一冊目を置き、間を飛ばして、五冊目を手に取る。確かこのあたりだった。
『人づてにシャーロット君のその後を知った。俗にシャーロットコピーと呼ばれる完全なコピーを作成するプロジェクトが動いているのだと言う。(中略)私は、注意深く、あれが私の手によるものだということに感づかれぬよう、シャーロット君の数理モデルを論文化して公表することとした。いつか、彼らの挑戦に役立つかもしれない』
ここだ。彼は、エレナを守るのと同時に、科学者として、人類へ貢献する情熱を、取り戻している。
一体、どうして。
大きな日付を隔て、彼は唐突に、こんなことをしている。
いや、その直前にこんなことがあった。
『研究者公募の知らせを見つける。エレナ・ロレッタの勧めもあり、――応募することにする』
『思いがけず計算機科学研究所の所長の椅子を与えられることとなった――いずれ、第五市を故郷とするだろう』
ここで彼はもう、科学者として、人とかかわることを決意している。
……なぜ?
……エレナ、ロレッタ?
僕は、全く手を付けていなかった、時系列のおかしな二冊に目を向ける。
一冊の表紙には、その隅に、気づかなければわからないほど小さな字で、こう書かれている。
『我が娘』
それを、ゆっくりと手に取る。
***
『ロレッタという、私から見れば少女に等しい若い娘が、私のもとを訪れたのは、青天のへきれきであった。我が友人であったフェリペが、彼女を殺そうとしていたことなど、彼女らも当然知っていただろう。最初は、復讐に、私を殺しに来たのかと思った。だが、彼女らは、単に、私の庇護を求めていた』
これが、その分冊の書き出しだった。
隅に『我が娘』と書かれたエンダー博士の手記。
何を思って別の冊子に書こうとしたのか。
その理由はすぐに書いてあった。
『彼女の記憶は私の非情の記憶だ。とても、あとで読み返す気になれそうもない。だが吐き出しておかねば私は狂ってしまうだろう。二度と読み返さぬつもりでここに記そうと思う』
『一度は私たちが殺そうとしたロレッタと数人の少女たちが、庇護を求めてやってきた。私はそれに応える義務がある。彼女たちがどれだけの決意をもってここに来たのかは容易に想像できる。全てを奪われて生きるすべを失い、それでも生きるための最後のよすがだったのだろう。エレナにすがる私と同じだ。拒否する理由がどこにも見つからない』
前の手記には、それは『エレナのかつての同僚』としか書いていなかった。
まさか、それが、殺そうとしていた相手だとは。
いや、正確には、エンダー博士の『友人』が殺そうとしたのだということは分かる。でも、エンダー博士は、それを自分の罪として認識している。
『ロレッタたちは、よく働いている。私に対して何のわだかまりもない。私が間接的に彼女らの恩人を殺してしまったということも知っているはずなのに。いや、もしかすると知らないのかもしれない。それを教えてやって、復讐を受けるのも悪くない』
そして、彼はもう一つの罪を告白している。それによって、ロレッタに断罪されることも覚悟のうえで。
『私とフェリペは、賭けをした。フェリペは、シャーロット君を手に入れ、宇宙の真実をわがものにすると息まいている。もしそれがかなわなければ、我が命を投げ出そう、とまで言うこともあった。その時、では、もし君がシャーロット君を失ったら、私の命をやろう、と言おうと思った。だが、私は極めて悪趣味な賭けを提示した。シャーロット君の心の支柱であった、アユム・プレシア―ド。シャーロット君直属の小隊長であり、彼女らが脱走兵となってからは事実上のリーダーだった少女。あの娘を失うことはシャーロットを失うことに等しかろう、そんなことを思いついた私は、アユムの命が失われたら、私の命をやろう、そんなことを口走っていた』
思わず吐き気がして、唾を飲み込んだ。
余りに悪趣味な博士の言に。
そこまでの狂気に陥っていた。
マリアナの悲劇は、そこまで、誰もを狂わせるほどだった。
僕は、マリアナに行ったとき、時代遅れで荒廃した、見捨てられる惑星だと考えた。
誰もが命を掛け金として積み、容易に命の奪い合いをしていると感じた。
過去のマリアナでは、そんなことなど優しく見えるほどの、凄惨な悲劇が繰り広げられていたのだ……。
『フェリペは、創造主として、ロレッタたちを処分することに決めた。私はそれに事実上加担していた。しかし、アユム・プレシアードは、ロレッタたちを救出した。アユムは間違いなく、ロレッタたちの命の恩人である』
それが、アユムとロレッタと、エンダー博士の関係だった。だが、次の節を読んで、僕はまた博士の絶望を知る。
『アユム・プレシアードが死んだ。何も残さずに死んだ。彼女は、シャーロット君を助けるために戦った。結果として、シャーロット君はエレナに勝ち、アユムは死んだ。救われたはずのシャーロット君だったが、マカウの興味を引いてしまい、そのままマカウに連れ去られてしまった。だから、アユムは無駄死にだ』
もしかすると、博士は、アユムの命を自分の命の賭けの対象にすることで、彼女が何かを成すことを期待していたのかもしれない。あるいは、賭けの中で、そんな気持ちになっていったのかもしれない。
『シャーロット君を手に入れられなかったフェリペは、当然死んだ。そして、私の対面したアユム君の死体は、フェリペからの呪いだった。さあ、お前も死にたまえ、と。彼はいずれ全知の力を独占するために私を除くだろうと思っていた。だがよりによってそのような形で突きつけられようとは。つまり、アユムを殺したのは、彼女の命に私の命を懸けた、私だ。掛け金を清算するためにこめかみに銃を置いたが、連れ去られる直前のシャーロット君にその銃を粉々にされてしまった。債務不履行者としてみじめに生きろと言われた。それが罪の償い方だと言うのなら、そうして生きようと思った。ほかならぬ、シャーロット君に言われたのだから、仕方あるまい、と思ったのだ』
だから、博士は、債務不履行者として、全ての人々との関係を絶ち、エレナだけの世界に没頭していったのだ。
『ロレッタは、債務取立人だ。アユムが唯一残した、アユムの残滓である。だから、この話を彼女にした。アユムを殺したのは私だと。すぐに殺されるだろうと思った。だが、ロレッタは、私をじっと見つめ、しばらく黙った後、――、一緒に返そう、と言った。意味が分からなかった。彼女は、連帯保証人になる、と言ったのだ』
――ロレッタこそが、博士を救った。
それが僕の見出した真実。
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