第三章 記憶、記録(3)
論文。圧力。
大学。頑迷。
贖罪。共犯者として守られてしまった。
ディーンの頭脳は、これを打開する手札をひねり出すことができなかった。
でもだからこそ、自分だけが、それを打開できるはず、しなければならないと感じていた。
これまでも、科学の小さな芽吹きは、きっと、幾人もの靴底で踏み潰されてきたはずだ。
それに抗うことこそが、小さな科学者の使命だという確信を深めている。
ゆえに。
公務員としてあるまじき行為ではあるが、非合法に手を染めた。
調査用の飛行ドローンを持ち出した。
調査が凍結されていることが幸いし、それが持ち出されたことに気づくものは誰もいなかった。
少し値が張ったが、航続距離が十分にある釣り船を、二日だけ借りる算段もついた。
そこに無人機を載せて、調査海域へ向かうことを画策する。
だが、徐々に状況がそれを許さなくなってきた。
相変わらずデータの山は彼の机を圧迫し続けた。
本来、デジタルデータとして整理してあるべきなのだが、無気力な過去の調査は、それらをデジタル化していなかった。なおかつ、フォーマットもバラバラで、調査員の気まぐれで記載事項もころころと変わっている。単にそれをスキャンするだけでも相当な手間なのに、調査員の意図を読んでデータ化するのは大きな負担となっていた。
海域の凍結で多くの調査員の手が空き、みんなでその仕事をしているはずだったが、ディーンの負荷は明らかに大きかった。誰の差配か分からないが、担当するブロックは、過去に最も多く、最も無気力に掘削が繰り返されたブロックだった。
周りの同僚もそれを知っているはずで、あるいは、手分けをしてくれてもよいはずだった。
実際、ディーンは、疲労の顔で大きくため息をついてから同僚にそれを切り出そうとしたのだが、それに気づかぬふりをして、同僚に席を立たれたことがある。それと似たようなことは一度や二度ではなかった。
マクフライに何か言われているのかもしれない。
そんな疑念はすぐに浮かんだ。
マクフライより遥かに上位から、ということもありうるし、実際にはそうなのだろうとさえ思っていた。
ディーンの知らないところで、同僚一人一人に、何らかの『警告』が与えられているのかもしれない。
たかがディーンを追い詰めるために?
――いや、おそらく、ディーン個人の問題ではない。
オルテンシア海で何かが出ては困る人がいる。
それはすなわち、この海域の調査局全体の問題だ。
そして、ことあるごとにあの鉱物のことを口にするディーンが厄介者だと、みんなが気づき始めている。
論文も、毒性の指摘も、完全に裏目に出てしまった。
今更、あれはあきらめました、と言って、聞くものもいまい。
かえって警戒を強め、彼の些細な不正行為を暴かれることにもなりかねない。
少しだけ、角度を変えてみることにした。
モータースポーツの趣味を同じくする同僚の一人に、久しぶりに、と声をかけた。
その同僚も、ディーンと同じく内燃機関駆動車の魅力にどっぷりとはまった狂信者だ。名を、ラオ・ロンリェンという。
「少し息抜きを、と思ってね」
疲れた顔を隠し、ディーンは気軽そうに声をかける。
「そうか、うん……しかし、いいのかい、あの分析対象の山は」
ラオは容赦なくディーンを現実に引き戻そうとするが、
「だからこそさ、一度頭をすっきりさせないと、もちそうにない」
「そうか、だが僕もだいぶため込んでいてね」
ラオは言いながら、自分のデスクを指さす。確かに、ディーンには及ばないものの、デジタル化されていない紙の束が、乗っている。
「大丈夫さ、少し遠出して新しいコースを走ってみよう。きっと処理は早くなる」
「うむ……だがね、その、家族の目もある」
「家族の目?」
ラオがそんなことを言い出したのは初めてで、ディーンは首をかしげる。
「うちの奥さんがね、そろそろ、暴れ馬に乗る趣味はさすがにどうか、なんてことを言うんだ。子供ができたら、ファミリーカーが必要だ。完全自動のやつがね。だとしたら、真逆のスポーツカーなんて最初に被告に上げられちまう」
「だったらその前にこそ、楽しむべきだ」
「それで罪状が追加されるのは、勘弁してくれ」
ラオが苦笑しながらそう言うが、その不自然な会話で、ディーンは確信を深める。
直接に無視をしろと言う指示は出ていなくとも、やはり、睨まれたくないのだ。
調査局そのものと同じ。
鉱石を発見し、余計な官報を出し、最近では妙な論文騒ぎを起こした。
そんな面倒な男と親密だと知られたくない。
それは、自然な防衛反応だろう。
だが、嫌々で命令を聞いているのではない、感情的な防衛反応だからこそ、それを破ることは難しい、とディーンは思う。
趣味の付き合いまでその感情に支配されているとしたら――。
ラオが無意識に発した『罪状の追加』という言葉が、おそらく、ラオの本当の心情なのだ。ただでさえ同趣味で親しいと思われているのに、この時期に二人で出かけるという疑いは、勘弁してくれ――。
そこまで理解を進めたディーンは、肩をすくめた。
「そうか、まあ、じゃあ、奥さんを説得できたら、誘ってくれ」
言いながら、その誘いが来ないことを確信していた。
そして、結局ディーンは自分の力で処理を進める必要があるという現実に戻る。
船のチャーターの日は迫っていたが、休日も休みなく処理を進め、目標期日に対してやっと二日ほどの猶予を確保できた頃だ。
彼の机には、『担当ブロックで新たに見つかった大量のメモ』が置かれていた。
そのメモは、それこそ、掘削機のメモリの読みだとか誰がレバーを持つかなどといった、科学的には全く無意味なものばかりだった。そういうものも一応は保管されるものの、そういったものは『作業メモ』として放置してあるのが通例だ。だから、当初の作業対象にはそんなものは入っていないし、他の同僚もそんなものを処理しているようには見えない。
しかし、それを持ってきた同僚は全く悪びれもせず、悪い、漏れてた、の一言で、それを処理対象と定義した。
彼の休日は完全に潰され、釣り船チャーターの入金締切日はあっさりと過ぎていった。
***
暗い部屋で、頭を抱える。
きっと、どんな科学者もこんな壁に突き当たることだろう。
僕の場合は、それが、エミリア王家とエミリア正教というばかばかしいほど巨大な壁だっただけだ。
有形無形の嫌がらせだけでなく、上司も同僚も、僕をひっそりと避け始めているのを知っている。
彼らも、僕を戒める力の出どころを、きっと勘づき始めているからだ。
けれども、それを乗り越えなければならない。
無力な、この僕、が?
こんな時、過去の科学者はどうしていたのだろう。
ただひたむきに努力を続ける人もあったかもしれない。
権力者におもねり、パトロンを得た人もあっただろう。
僕は、一体どうすればいいのだろう。
僕を理解してもらえるかもしれない――と思っていた、リーザも、エレナも、僕を裏切って消えていった。
僕に科学への情熱だけを植え付けて。
だから、僕はもう、誰の力も借りられない。
……ふと、そんな人を思い出す。
マリアナの、リチャード・エンダー博士。
マリアナの悲劇で多くのものを失い、孤立無援だった。
それでも彼は、生き抜いた。
最後は科学者として、シャーロット・コピーが生み出されるところまで見届けた。
それはきっと、彼の贖罪だったのかもしれない。
では僕は、誰に罪を贖えば良いのだろう。
そんなすがるような思いで、マリアナですっかりコピーしてきて、気まぐれで製本しておいた博士の手記を手に取った。
***




