追放
本日二話目の更新です。前話「雨は止まない」から続いています。
翌日、蓮瑛は腫れた頬を隠すこともできないまま、神殿へ向かった。
襟元から首筋に残る痣が覗き、袖の下の腕にも青黒い跡が浮かんでいた。
神官達は誰も何も言わなかった。ある者は目を伏せ、ある者は逃げるように祈祷の支度へ戻っていった。
神官長も傷へ目を留めたが、何も尋ねなかった。
「……始められるか?」
「はい」
ありふれた日々が続く。
雨は止まず、蓮瑛の身体も日に日に重くなっていった。朝、寝台から起きることさえ難しくなっても、神殿に通うことだけはやめなかった。
それからひと月が過ぎた頃、新たな神託が下った。
新しい巫女の名は香蘭。皇帝を補佐する丞相の娘だという。
報せを聞いた蓮瑛は膝から崩れ落ちた。
(新しい龍の巫女が現れた……)
雨を止められない自分が祈る必要がないのだと思った瞬間、蓮瑛は胸のどこかで安堵してしまった。けれど、それは同時に、自分を選んだ神龍から見放されたということでもあった。
新たな神託が下ったその日のうちに、蓮瑛は神殿への出入りを禁じられた。歴代の龍の巫女に与えられてきた殿舎も明け渡すように命じられ、皇宮の片隅にある狭い客間に移された。
香蘭が祈祷を行った翌朝、ひと月ぶりに帝都を覆っていた雲が切れた。
皇宮では、香蘭こそ神龍に選ばれた真の巫女であり、晴天はその証だと誰もが喜んでいた。
狭い窓から差し込む光を見つめながら、蓮瑛は胸を撫で下ろした。
雨は止んだ。これでもう洪水や飢えに苦しむ者が出ることはない。
自分がどれだけ祈っても止まなかった雨を、新たな巫女である香蘭は、たった一度の祈祷で止めたのだった。
(やはり、私ではなかったのね……)
皮肉なことに、役目を失ったその日から、蓮瑛の身体には不思議な変化が起きていた。
食事は一日に一度しか与えられず、以前よりも粗末になった。それにも関わらず、身体の奥に沈んでいた重さは、日を追うごとに薄れていった。
朝、寝台から起きることも、以前ほど辛くはない。熱を持ったような倦怠感も、いつしか感じなくなっていた。
神龍の加護が自分には重すぎたのだ。役目を失い、加護が離れたから身体も軽くなった――そう考えれば、すべて辻褄が合うように思えた。
雨が上がってから数日後。
皇宮に厳かな鐘の音が響き渡った。香蘭が正式に龍の巫女へ任じられる日だった。
ほどなくして客間の扉が開き、女官が現れた。
「蓮瑛様。蒼天殿へお越しください」
蒼天殿――皇帝が国政を執り、龍華国の大事を決める場所。
二年前、蓮瑛もそこで龍の巫女として迎えられた。
「……今、支度いたします」
「必要ありません。そのままお越しくださいませ」
蓮瑛は一瞬だけ言葉を失った。
皇帝から直々に賜った祭服が脳裏に浮かぶ。あの装束は龍の巫女である証だった。けれど、もう袖を通すことは許されないのだ。
「承知いたしました」
もう自分が龍の巫女ではない。その現実を、改めて突きつけられた気がした。
蒼天殿の前庭へ足を踏み入れた瞬間、二年前の記憶が蘇る。
龍の巫女として迎えられ、神龍に選ばれた喜びと、国のために尽くすことができるという誇らしさで胸がいっぱいだった。
あの日と変わらず、前庭には神龍へ舞と祈りを捧げるための祭壇が据えられている。
殿舎の正面に設けられた御座には皇帝と皇后が並び、その左右には皇族や高官達が列座している。
けれど今日、蓮瑛は祭壇から最も遠い場所に控えることを命じられた。
やがて雅楽が鳴り響き、儀式が始まる。
神官達が祝詞を捧げる中、一人の女性がゆっくりと祭壇へ進み出る。
新たな龍の巫女、香蘭。
艶やかな黒髪には金の飾りが揺れ、群青の祭服には金糸の龍が縫い取られている。
彼女は祭壇の中央で静かに一礼すると、神龍への舞を奉じ始めた。楽の音に合わせ、長い袖が翻る度、金の龍が陽光を受けてきらめいた。
二年前、自分もまた同じ舞を奉じた。
(あの場所に、私は確かにいたはずだったのに――)
舞が終わると、香蘭は祭壇の前に跪いた。
神官長が神託を読み上げ、香蘭を新たな龍の巫女として迎えることを宣言する。皇帝から龍の巫女の証となる宝冠を授けられると、参列者達は一斉に頭を垂れた。
「香蘭。龍の巫女として、神龍に祈りを捧げ、この国を守るがよい」
「謹んでお受けいたします」
香蘭の澄んだ声が前庭に響いた。
これで任命の儀は終わる。そう思った時、皇帝が口を開いた。
「先代の龍の巫女を前へ」
蓮瑛の肩が大きく震えた。
「御前へ」
女官に促され、蓮瑛は顔を上げた。
蓮瑛が一歩を踏み出すと、並んでいた人々が左右へ分かれ、御座までの道が開かれた。蓮瑛は無数の視線を浴びながら、その間を一人で歩いていく。
誰もが蓮瑛を見ていた。色褪せた衣も、痩せた身体も、まだ残る頬の腫れも、隠すものは何もない。
ようやく御座の前まで辿り着くと、蓮瑛はその場にひれ伏した。
皇帝は蓮瑛を冷たく見下ろしていた。
「……見る影もないな」
二年前、皇帝は龍の巫女になった蓮瑛の手を取り、その美しさを褒め称えた。けれど、今の声は、同じ娘を見ているとは思えないほど、何の関心もなかった。
「新たな巫女が立った以上、この娘を皇宮に置いておく必要もあるまい」
蓮瑛は石畳に額をつけたまま、指先だけがかすかに震える。
「この娘は晴れを願っても、雨ばかり降らせるのであったな」
「左様にございます」
皇后が答える。その声には、隠しきれない笑みが滲んでいた。
「碧砂国では水が不足していると聞く。ならば、この娘を碧砂国王の妃として下賜するとしよう。無能とはいえ、一度は神龍に選ばれた女だ。かの王への褒美としては十分であろう」
突然告げられた言葉を、蓮瑛はすぐには理解できなかった。
碧砂国――龍華国の西に隣接し、さらに西の国々との交易で栄える砂漠の小国。
龍の巫女として諸国について学んだ蓮瑛も、その名は知っていた。玻璃細工や香料を龍華国にもたらす一方、野蛮な異国として見下されてもいる国だった。
まさか、自分がその国へ嫁ぐことになるとは思いもしなかった。
「陛下のご配慮、誠に素晴らしきものと存じます」
皇后は満足そうに告げると、蓮瑛へ冷たい視線を向けた。
「お前のような役立たずでも、砂漠の国ならば使い道もあるでしょう」
蓮瑛に拒むことなど許されていなかった。
蓮瑛は石畳に額をつけたまま、沈黙した。
そもそも、蓮瑛の返事など誰も求めていなかった。
「婚姻の支度をさせ、半月後に都を発たせよ」
「御意」
皇帝の命を受けた役人が頭を下げる。
こうして蓮瑛は、本人の意思を一度も問われないまま、碧砂国王の妃として龍華国を去ることになった。
ただし、それは皇帝が告げた半月後ではなく、翌朝のことであった。
薬によって眠らされた蓮瑛は、人目を避けて皇宮の外に運び出された。目を覚ました時には、驢馬が引く荷車の中にいた。
誰の仕業かは蓮瑛には分からなかった。
歴代龍の巫女が役目を退く時、それまでの働きに報いるため、皇帝から報奨と封土を与えられる。
けれど、何一つ与えられなかった。蓮瑛には花嫁衣装も、供の者も、見送りさえなかった。着替えもなく、わずかな水と食料だけが用意されていた。
蓮瑛は罪人のように夜明け前の帝都を追い出されたのだった。




