雨は止まない
「――もうよい。今日はここまでだ」
神官長の言葉に、蓮瑛は祈りを捧げた姿勢のまま動けなかった。
神殿の外では、激しい雨が屋根を叩いている。
「もう一度だけ、お許しください」
床に額づき、蓮瑛は懇願した。
「ならぬ」
神官長の声に責めるような響きはなかった。それがかえって、もう期待されていないように思えて、蓮瑛は何より辛かった。
「ですが、私は龍の巫女です。私が止めなければ――」
「もうよい。今日は戻って休みなさい」
言葉を遮り、神官長は蓮瑛の側に歩み寄ると、その肩へ静かに手を置いた。
「これ以上続けても、そなたが倒れるだけだ」
蓮瑛が龍の巫女として神殿へ迎えられてから、既に二年が過ぎている。それでも、一度として思い通りに天候を操れたことはなかった。
そればかりか、皇宮に来てから身体は日に日に重くなり、近頃では長く祈りを捧げることさえ難しくなっていた。
「皇后陛下がお呼びです」
不意に掛けられた声に、神官長の手の下で蓮瑛の肩が強張った。振り返ると皇后付きの女官が厳しい顔で立っている。
「蓮瑛は祈祷を終えたばかりだ。今日は休ませたい」
神官長が肩に手を置いたまま告げると、女官は冷ややかに答えた。
「皇后陛下のご命令です」
龍の巫女は神殿で祈りを捧げるが、神殿に仕える者ではない。皇帝に仕える祭祀官として、皇宮内に住まいを与えられている。身の回りのことも内廷の差配を受ける蓮瑛に、皇后の召しを拒むことはできなかった。
同様に、神官長もまた皇帝に任命された役人の一人であり、皇后の命令を退ける権限はなかった。
神官長の手が蓮瑛の肩からゆっくりと離れた。
物言いたげな眼差しを向けられたが、蓮瑛はそれを見返すことができず、目を伏せた。
女官に従い、蓮瑛は神殿を出た。
皇后の住まう後宮へ近づくほど足取りが重くなる。それでも立ち止まることは許されず、蓮瑛は女官の後ろを黙って歩いた。
やがて深紅の扉の前へ辿り着く。
扉が開かれると、金と朱で彩られた皇后の居室が現れた。だが、豪奢な調度品など蓮瑛の目には入らない。視線は部屋の奥に下ろされた御簾へ吸い寄せられていた。
「龍の巫女をお連れいたしました」
女官が告げると、蓮瑛はその場にひれ伏した。
「帝都では、何日も雨が降り続いている」
「……」
「龍の巫女」
「は、はい……」
「そなたは、それをどう思う」
蓮瑛は答えられなかった。
「答えよ」
御簾の奥から落とされた声に、蓮瑛は床へついた指先を握り締めた。
「……私の力が至らぬためと、存じます」
「では、この雨はそなたのせいだと認めるのだな」
「そのようなつもりでは――」
「今、己の力が至らぬためだと申したではないか」
蓮瑛はそれ以上、何も言えなかった。
「……申し訳ございません」
「このまま雨が続けば、川が溢れ、畑は水に沈む。飢える者も、命を落とす者も出るだろう」
一つひとつの言葉が、すべて蓮瑛の罪として突きつけられる。
「申し訳、ございません……」
「また謝罪か」
御簾が音を立てて払われた。
顔を上げることのできない蓮瑛の前に、絢爛な衣の裾が現れる。
「貴様の謝罪ごときで、雨が止むのか」
「……申し訳ございません」
「ならば止めてみせよ。真に龍の巫女だというのなら、今すぐ帝都の雲を晴らしてみせよ!」
鋭い音と共に、扇の硬い骨が蓮瑛の肩を打った。
肩に激痛が走り、蓮瑛の身体が傾いた。それでも身を庇うことはできない。腕を上げれば、皇后に逆らったと取られるかもしれなかった。
「申し訳ございません……」
「まだ謝るか!!」
二度、三度と扇が振り下ろされる。肩を、背を、腕を打たれ、蓮瑛は床に身を縮めた。
「薄汚い野良犬が、龍の巫女などと持て囃されて、身の程を忘れたか!!」
扇が再び振り下ろされる。蓮瑛は歯を食いしばり、声を漏らさぬよう唇を噛んだ。
「龍の巫女とは、この国を救うためにあるのだ。それが雨一つ止められぬとは、何のために皇宮に置いてやっていると思っているのだ!」
「……申し訳、ございません」
「口を開けば謝罪ばかり!謝って雨が止むのなら、誰も苦労はせぬ!」
皇后は閉じた扇の先を、蓮瑛の顎へ押し当てた。
「顔を上げよ」
蓮瑛は震えながら顔を上げた。
「余はな。無能な者が最も嫌いだ」
皇后の目には、怒りよりも深い嫌悪が浮かんでいた。
「どうして貴様のような無能な女が、皇宮でのうのうと暮らしているのだッ!!」
大きく振りかぶられた扇が、蓮瑛の頬を打った。
「――ッ!」
衝撃に耐えきれず、蓮瑛は床へ倒れ込んだ。それでも、蓮瑛は痛む身体を起こし、再び皇后に頭を下げようとした。
「申し訳、ございません……」
その頭を、皇后の足が踏みつけた。
「貴様など消えてしまえ」
雨は止まない。
本日は過去編を二話同時更新しています。次話「追放」まで続けてお読みいただけます。




