砂漠の王と龍の巫女
「体のあちこちに古い傷跡が多く、なかには鞭で打たれたと思われるものも……」
言いにくそうな医師の言葉に、シンシャの表情が強張った。ランフォンも言葉を失っている。
「ひどく痩せておられます。長い間、十分な食事を与えられていなかったのでしょう。今回の旅だけが原因とは思えません」
「……そうか」
「ですが、水分も食事も少しずつ召し上がっておられます。このまま静養なされば、命に別状はございません。長話はお勧めしませんが、短時間であれば面会も可能でしょう」
そう言って医師は退室していった。
「想像以上に裏がありそうな話だ」
シンシャは思わず額に手をやった。
「役目を果たせぬ巫女であったからでしょうか」
「だとしても、罪人ではない者にする仕打ちではないはずだ」
ましてや彼女は『龍の巫女』のはずだ。龍華国では皇帝すら一目置くほど尊ばれる存在と聞く。
「そもそも本物の龍の巫女なのでしょうか?」
ランフォンの疑問は当然のものだった。粗末な荷車に乗り、供も持たぬ娘を、一国の王の妃として送り込むなど常識では考えられない。
「何のために?偽物なら偽物なりに体裁を整えるべきだ」
下手をすれば間者として捕らえられる可能性もあった。いや、今もまだ疑いは消えたわけではない。それでも、目の前で弱り切った娘を見捨てることはできなかった。
「考えても全く龍華国側の意図が読めませんね」
扉を叩く音がして、砦の隊長が入ってきた。
「陛下、蓮瑛様がお目にかかりたいとおっしゃっております」
「蓮瑛殿が?」
「助けていただいたお礼を、どうしても直接申し上げたいと」
シンシャは眉を寄せた。
「……まだ礼を言えるような体ではあるまい」
「妻も最初は止めたようですが、どうしてもお礼を言いたいと。とても気に病んだ様子で……」
「ならば会おう。これ以上気を揉ませる方が、体に障りそうだ」
長期間虐げられてきた者は、上位者の機嫌を損ねることを何より恐れるのだろう。シンシャは理不尽に人を虐げたことはないが、一度も顔を合わせたことのない蓮瑛が知るはずもなかった。
隊長の案内で、蓮瑛が休む客室へ向かった。
扉の前では、控えていたユエリーが深々と頭を下げる。
シンシャは一つ頷き、静かに扉を開けた。
寝台には誰もいなかった。
視線を落とすと、床に膝をつき、額が触れるほどに深く頭を垂れた少女がいた。
背後で息を呑む気配がした。
「顔を上げてくれ」
「……申し訳ございません」
何に対する謝罪なのか分からない。それでも蓮瑛は、怯えるように身を縮めていた。
「謝られる理由が分からない。まずは寝台に戻ってくれ」
「ですが……」
「医師から、まだ安静が必要だと聞いている」
だが、蓮瑛は動かない。
「私は謝罪を聞きにきたわけではない」
すると蓮瑛は、おずおずと顔を上げた。
顔や髪の汚れは落とされていたが、頬はこけ、目の下には濃い影が落ちていた。国書から思い描いていた『龍の巫女』とは、あまりにもかけ離れた姿だった。
「立てるか?」
シンシャが手を差し出す。
蓮瑛は戸惑いながらも、恐る恐るその手に自分の手を重ねた。
その瞬間、冷たい風が部屋を吹き抜けた。
窓辺の薄布が大きく膨らみ、乾いた熱気が一気に押し流される。シンシャの金色の髪も、蓮瑛の黒髪も風に揺れた。
「風……?」
背後で、隊長が呆然と呟いた。
「この時季の砂漠に、これほど冷たい風が吹くなんて……」
その時、立ち上がりかけた蓮瑛の膝から力が抜けた。ユエリーが慌てて体を支える。シンシャと蓮瑛の手が離れると同時に、風も止んだ。
ユエリーが蓮瑛を支え、寝台に座らせた。
「まずは、遠いところからよく来てくれた。私が碧砂国王シンシャだ」
声を掛けると再び頭を下げようとする蓮瑛を、シンシャは手で制する。
「旅の間で分かったと思うが、碧砂国は龍華国に比べて水が乏しく、暮らすには厳しい土地だ。まずは体調を取り戻すことだけを考えてくれ」
シンシャの言葉はごく当たり前の労いだった。だが、蓮瑛は目を見開いて驚いていた。いや、戸惑っているという方が近いだろう。
「……恐れ入ります」
と、ようやくそれだけ絞り出して、目を伏せたのだった。
■■■
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
蓮瑛はようやく小さく息を吐いた。
(怒られなかった……)
シンシャは部屋にいる間、一切声を荒げることはなかった。
床を這う見苦しい姿を見せても、不敬だと咎めることもなく、頭を上げろと言われた。そして体を気遣われた。
(どうして……)
蓮瑛には分からなかった。
先ほどの王の姿を思い出す。
厳しそうな顔立ちをしていたが、蓮瑛を見る目に怒りや侮蔑はなかった。声も終始穏やかだった。
そして、まるで黄金のように輝く金色の髪――龍華国では見たことのない色。
ユエリーの栗色の髪も、シンシャの後ろに控えていた男の赤みを帯びた茶髪も見たことがない。身にまとっていた衣も、龍華国とは違う。蓮瑛は、改めて自分が異国に来てしまったのだと実感した。
未知の場所は恐ろしい。けれど――
『遠いところからよく来てくれた』
シンシャの労いの言葉を思い出すと、蓮瑛の胸の奥がほんのりと温かくなった。
(あんな言葉を掛けられたのは、いつ以来だったろう)
思い出そうとして、蓮瑛は頭を振った。浮かびかけた何かを追い払うように。
代わりに、先ほど触れたシンシャの手の温かさを思い出す。触れていたのは、ほんのわずかな時間だったけれど、その感触を忘れることはできない。
彼は蓮瑛が来たことを迷惑だとは言わなかった。自ら国境まで迎えにも来てくれた。
(もしかしたら、私がここにいることを許してくださるかもしれない……)
そう考えただけで、恐ろしいばかりだった異国が、ほんの少し違って思えた。
初回更新はここまでです。続きは毎朝7時に更新します。
気になった方は、ブックマークや下の★で応援していただけると嬉しいです。




