国境の砦
龍の巫女を保護したとの知らせを受け、シンシャは翌朝、夜が明けるより早く王都を発った。
国境の砦に到着したのは、昼を過ぎた頃だった。
馬を下りたシンシャを砦の隊長が出迎える。
「蓮瑛殿は?」
「砦の一室でお休みいただいております。ひどく疲れておられますが、命に別状はないと医師が申しております」
「そうか……」
シンシャはひとまず息を吐いた。
中庭には一台の荷車が置かれていた。粗末な造りで、長旅をしたせいか車輪も泥と砂で汚れている。その隣では、痩せた驢馬一頭が水を飲んでいた。
「まさか、供一人連れずにやって来るとは……」
「御者は碧砂国に入る前に、姿を消したそうです。目を覚ました時には、蓮瑛殿と驢馬だけが残されていたと」
国書には龍の巫女を王の妃として遣わすと、あれほど仰々しく書かれていたのに。その実、用意されたのは粗末な荷車と痩せた驢馬一頭だけ。国境を越えるための案内すらつけず、途中で置き去りにしたのか。
「それにしても、随分な強行軍だったようですね」
ランフォンが顎に手を当てながら言った。
「国書に記された日付を考えれば、通常よりかなり早く到着しています。宿場で十分に休ませてもらえなかったのでしょう」
シンシャは、寝台から身体を起こすことさえできなかった蓮瑛を思い出した。
「仮にも一国の王へ嫁がせる娘だぞ」
シンシャの声が低くなる。
「それを、供もつけず、途中で放り出したというのか」
「花嫁を送ったというより、国境の外へ捨てたのですね」
「……否定はできん」
重苦しい沈黙が流れた。
やがてシンシャは隊長へ向き直った。
「蓮瑛殿は眠っているのだな」
「はい」
「なら起こすな。王都へ向かうのは、体調が戻ってからだ」
■■■
荷車が揺れていないことに気がついた。
目を開ければ木目の天井があり、背中には柔らかな寝具の感触がある。
慌てて起き上がろうとすると、鉛のように重たい体のあちこちに痛みが走った。
「あら、お目覚めになりましたか?」
穏やかな女性の声に、蓮瑛は思わず身を起こそうとした。
「も、申し訳――ゴホッ」
頭を下げようとした途端、乾いた喉が痛み、激しく咳き込んだ。
「無理をなさらないでください」
女性は蓮瑛の肩をそっと支え、寝台へ横にならせると、脇に置かれている水差しから木の杯に水を注いだ。
「まずはこちらを。ゆっくりで構いませんよ」
「私などに……」
「喉が渇いていらっしゃるのでしょう?」
当たり前のように差し出された杯を、蓮瑛は恐る恐る受け取った。
冷たい水が喉を潤していく。ひび割れたような痛みが、少しずつ和らいでいく。
「ありがとうございます……」
「どうぞお気になさらないでください」
小さく礼を言うと、女性はほっとしたように微笑んだ。
「私は、この砦の隊長の妻・ユエリーと申します」
「砦……?」
「はい。ここは碧砂国の国境を守る砦です。昨夜、貴女様は門の前で保護されたのですよ」
そこで蓮瑛は、驢馬の姿が見えないことに気がついた。
「あの、私と一緒にいた驢馬は……?」
「ご安心ください。水と餌を与えられて、厩で休んでいますよ」
その言葉に、蓮瑛は胸を撫で下ろした。
「それから、国王陛下もこちらへお越しになりました」
「国王陛下が……?」
国王本人が国境まで迎えに来たというのか。
「すぐにお詫び申し上げなければ……」
青ざめた蓮瑛は寝台から下りようとした。だが、床に足をつけた途端、膝から力が抜けた。
「いけません!まだ起き上がっては……」
「ですが、陛下をお待たせするわけには……」
「陛下がお待ちになるとおっしゃったのです。蓮瑛様が目を覚ますまで、決して起こさぬようにと」
ユエリーは呆然とする蓮瑛を再び寝台に戻した。
「ですから、今は何も心配なさらず、安心してお休みください」
信じられなかった。龍華国でそんな扱いを受けたことなどなかった。
けれど、蓮瑛は優しいユエリーの言葉を否定することもできなかった。
「まずは何かお持ちしましょう。食事をして、その後で、もう一度お医者様に診ていただきましょう」
蓮瑛は小さく首を振った。
「その前に……陛下にお礼だけでも申し上げることはできませんか?」
「お礼、ですか?」
「私を助けてくださり、お待ちくださったと伺いました。せめて一言、お礼を申し上げたくて……」
ユエリーはしばらく蓮瑛を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました。では、お食事と診察を済ませた後、陛下にお伝えいたします」
「ありがとうございます」
「ただし、蓮瑛様が出向くのではなく、陛下にこちらへお越しいただきます」
「そんな、陛下をお呼びするなど……」
「歩くこともままならない方を、陛下の下まで行かせるわけにはまいりませんから」
それでも恐縮する蓮瑛を残し、ユエリーは食事を用意するために部屋を出て行った。
部屋に静けさが戻る。
蓮瑛は胸の前でそっと両手を重ねた。そして考える。けれど会ったこともない王に、これほど気遣われる理由が、どうしても分からなかった。




