67:娼婦たちの逃亡
夜の村は、穏やかな静寂に包まれていた。
新しく拡張された居住区からは、安らかな寝息と、夜警の交代を告げる微かな靴音だけが聞こえてくる。カイゼルが敷いた魔導灯が、優しく通りを照らし、平和という名の膜が村を包み込んでいた。
だが、その均衡を、一筋の「震え」が切り裂いた。
「おーっと、夜更かしの神様がお呼びだぜ! 監視網に、何やら必死にステップを踏んでる足音がいくつも紛れ込んできたな!」
カイゼルが広場の中央で、いつものように陽気な声を響かせた。
だが、その瞳には夜空の星さえ射抜くような鋭い光が宿っている。
屋根の上。エルダが月明かりを浴びて、銀髪を鋭くなびかせた。
「……逃げているな。統率も装備もない、ただ命を削って走る者の足音だ」
「ははっ! 軍曹殿の耳には、絶望のメロディが聞こえてるみたいだねえ。マリナ、お前さんの鼻には何が映る?」
マリナが扇子を広げ、不敵な笑みを浮かべる。
「……安い香水の匂いと、拭いきれない鉄の臭い。……逃げ出してきたのね、『不夜城』の籠から」
意味は、全員が瞬時に理解した。
村の門。
影がなだれ込んでくる。十人ほどの女たちだ。
破れた服、泥にまみれた足。その瞳には、暗闇よりも深い恐怖が張り付いていた。
先頭の一人が門に縋り付き、血の滲むような声を絞り出す。
「……たすけて……お願い……!」
「よおし、お嬢さんたち! 最高のタイミングで、世界で一番安全な拠点の門を叩いたな!」
カイゼルが門を半開きにし、彼女たちを迎え入れる。
「エルダ、閉める準備はいいか?」
「……いつでも」
エルダが門の中へ女たちを押し込んだ直後――闇の中から矢が放たれた。
キン、とエルダの剣がそれを無造作に弾き飛ばす。
森の影から、松明を持った男たちが現れる。二十人近い。
「……いたぞ! うちの商品だ、さっさと返してもらおうか!」
「ははっ! 商品だとさ。マリナ、お前さんの帳簿に載せるには、随分と品性の欠けた連中じゃないか?」
マリナが冷笑を浮かべる。
「ええ。他人の尊厳を売り物にする連中に、商売を語る資格はないわ。……ここは私たちの『聖域』。不快なノイズは、即座に消去しましょう」
カイゼルが一歩前に出る。その顔には、いつもの底抜けに明るい笑み。
だが、背後の民兵たちが一斉に魔導式バレット銃を構えた瞬間、空気の重さが変わった。
「いいか、野郎ども! 俺はな、女の子の涙を見るのがこの世で一番嫌いなんだ。……悪いが、お前らの席はここにはねえ。命が惜しけりゃ、月明かりを頼りにさっさと退散しな!」
男たちが嘲笑う。「ハッ、たかが村の分際で! やれ、力ずくで連れ戻せ!」
「ははっ! 忠告はしたぜ!」
カイゼルが指を鳴らす。
風が裂けた。
ウィンドバレットの連射が、男たちの足元を正確に抉り取る。
同時にソイルバレットが地面を盛り上げ、彼らの進路を物理的に断ち切る。
「動くな。……次に動けば、その首から上とのお別れ会を開催してやる」
エルダの冷徹な一喝。男たちは初めて、自分たちが「ただの村」ではなく、完成された「軍事拠点」を相手にしていることに気づき、真っ青になって逃げ出した。
静寂が戻る。
「さて、お嬢さんたち! 怖い時間は終わりだ。これからは、美味いスープと温かいベッドが待ってるぜ!」
カイゼルが振り返り、怯える女たちに最高に陽気なウィンクを飛ばす。
広場では、リナと医療班が即座に手当てを開始していた。
「大丈夫よ、もう誰もあなたたちを傷つけないわ」
温かいスープを受け取った一人の女が、震える手でそれを啜り、涙をこぼした。
「……こんなに温かいの、生まれて初めて……」
マリナがその様子を見て、カイゼルに問う。
「で? これからどうするの? 彼女たちは、肉体的にも精神的にもボロボロよ」
「ははっ! 簡単なことさ。……選ばせるんだよ。ここに残るか、別の安全な街へ行くか。働くか、それともまずは泥のように眠るか。……全部、自分で決める。それが、この村の『自由』の定義だからな!」
エルダが静かに付け加える。
「……甘いが、それがお前のやり方だな。立ち上がる意志があるなら、私が最後まで面倒を見てやる」
カイゼルは女たちを見渡し、力強く宣言した。
「いいか! ここは逃げ場じゃねえ。……今日からお前らが、自分自身の足で立ち上がるための『舞台』だ! 働けるようになったら、その分だけ美味いもんを食わせてやるからな!」
女たちが、一人、また一人と顔を上げる。
その瞳には、灯火のように小さな、しかし確かな「希望」が宿り始めていた。
「さあ、明日は新人たちの新しい服を仕立てるぞ! マリナ、予算はたっぷり回してくれよな!」
「ええ、投資に見合うリターンを期待してるわよ」
カイゼルの陽気な笑い声が、夜の静寂を明るく照らす。
人は増え、物語は重なり、村はまた一つ、誰にも壊せない「再生の場所」へと進化した。
止まらない物語は、新しい「意志」という名の灯りを点し、さらなる光り輝く未来へと加速し続けていた。
「未来は、俺たちの計算通りに輝いてるぜ!」




