9
私小説:作者が経験した事柄を素材にして描かれた文章。
あくまで改変ありのフィクションが前提とされる。
人間は窮地に陥るとリミッターが解除されると言うけれど、アレはなかなかに本当だと、身をもって体験した。
サイキさんが出てきていたはずなのに、私が窓を開けて窓枠に足を掛けて飛び降りた、その瞬間の事だ。
飛び降りなんてした事が無かった私は、飛ぶと言えばジャンプをする位しかした事が無かった。
その、クセ、なのだろうか。
窓枠を蹴って、斜め上方へと跳躍をした。
その際に腕を上げたために、胴体が非常に捕まえやすい、無防備な状態になっていたらしい。
先生が、私の身体に飛び付いた。
私の身長と先生の身長差は、一〇cmはある。
更に引きこもりで鬱による虚脱症状でほぼ寝たきりになっていた上、ろくに食事も摂れていなかった先生では、私の身体を支える事なんて、出来るはずがない。
サイキさんでも、テンション違いのセツさんでもない。
何故か、この人は間違いなく先生であると直感した私の身体は、この人を生かさなくてはならないと自然に動いた。
無我夢中で必死だったために、こう動いたと明確には覚えていない。
状況からこうだったのだろうと、推測するしか出来ない。
私は恐らく、先生がしがみついたままの状態で身体を捻って腕を伸ばし、なんとか雨樋を指で引っ掴んで、ぶっ壊した。
ぶら下がり、落ちる勢いを削いだ所で、家の壁を蹴りながら、ゆっくりと地面に降り立った。
もちろんあのまま落ちていたとしても、先生の下敷きになる事は出来ただろう。
先生が私の自死の巻き添えになって死ぬ事は無い。
だが先生が止めに入ったという事は、私が死ぬ事は許されないのだと、先生の意に反する行為だったのだと、瞬時に脳が判断した。
それによって飛躍的に向上した身体能力のおかげで起こせた、奇跡のような行動だったと思う。
二階からだと、余程器用に落ちないと死ねないだろうなんて事は、その時考えてすらいなかった。
もうこの人の生きる理由になれないのなら、私に価値なんてない。
だから死ななければ。
そう思ったが故の、衝動的な行動だったのだ。
そんな事を考える余地などどこにもなかった。
ただこの行動により、衝動的に人は死のうと、死ななければならないのだと思う瞬間が訪れる事を学んだ。
先生という絶対的な、生きなければならない理由がある私には想像も出来なかった領域。
皮肉にも先生によって、先生が日々感じている陰鬱な思考が理解出来てしまった。
地面に到達した途端、気が抜けたのか、私はゆるゆると脱力し、その場にひっくり返ってしまった。
庭の一角なので当然のように、土の上だ。
しかも最悪な事に、先日雨が降ったばかりだった。
尻も背中も、頭も足も、全てが濡れて泥まみれになっていた。
バクバクと耳の中で聞こえる心臓の音と、未だ落ち着かない呼吸の音で、耳がキンと痛んだ。
「……ごめん……」
「……何がですか?」
私の腕の中、先生が謝る。
飛んだ時に頭のネジも、死ななければならないなんて洗脳めいた気持ちすらも、どこかへ飛んでいってしまった。
更に庭に寝転んだ事によって冷やされた頭は、さっきまでどんな口論をしていたのかすら思い出せない程に落ち着いており、心までも凪いでいた。
何より、どんな精神安定剤よりも効果が高い人が目の前にいるのだ。
平静さを取り戻すのは、至極当然の事である。
とても変態的な発言になってしまうが、私は先生の匂いが非常に好きだ。
鼻を首元に押し当て、肺がいっぱいになるまで吸い込めば、それだけで心が満たされた。
ほんの数秒前まで、先生不足でやさぐれていたのが嘘だったかのように、充足感を感じていた。
私が先程までの騒動なんてまるでなかったかのように先生を堪能しているなんて、つゆと知らない先生は、私の腕の中で、懺悔をするように心の内を吐露した。
「僕が本当に望んでいるものを理解しようともせず、僕を生かそうとしてくれる人や、僕が望むのならって言って、殺そうとしてくれた人もいた。
それが出来ないからと、謝りながら死んで行った人もいた。
僕はずっと、そういう人達に内心呆れていたんだ。
僕を自分が気持ち良くなるための道具にするなって。
誰も籠絡出来ない僕を手に入れたら、自慢になるからってゲームでもするみたいに勝手にのめり込んで、僕が望んでもいない事を想像して押し付けて、勝手に失望して離れて行く人ばかりだったから。
なのに君は……僕が欲しい物を与えるために、自分の命すら惜しまずに差し出そうとしてくれた。
僕は君がそんな事が出来るはずが無いって、見くびっていたんだ。
信じる事が、出来なかった。
……だから、ごめん」
「……二十年も一緒にいて、先生だけを見て来たんですよ。
それで分からないって言うなら、私はどれだけ盲目なんですか」
「だって君、僕より一〇も子供なんだよ?
僕にとっては、君はずっと可愛い子供なんだ。
子供は、移り気だから。
いつか、現実を見て、僕みたいな面倒臭いオジサンなんて嫌になって、離れて行くだろうって、ずっと思っていたんだよ。
それがこんな……大人になって……」
心外な。
体格も先生よりも余程大きくなって、社会にも出て納税の義務までシッカリとしている私が、未だに子供だと思われていたなんて。
イヤ、ちゃんと成長したのだと自覚はしてくれたようだけれど。
今、このタイミングでようやくですか。
「先生が中で寝ている間に、こんなに大きくなってしまいました。
……子供じゃなくなった今、少しは信じて貰えるようになりましたか?」
「…………」
「あ、そこは肯定してくれないんですね」
命懸けで先生への永遠の愛を証明しようとしたと言うのに。
本当に死なないと証明にならないと言うのなら、もう一回飛ぶべきか?
イヤ、だからってまた止めに入られた時、二度目の奇跡は起こせないぞ?
命綱となった雨樋は、壊れてしまったし。
「……僕が、永遠だって思えればいい、から、僕が死ぬその日まででいい。
僕を、愛してくれる?」
「何バカな事言ってるんですか」
深い溜息を吐いて言ったそのセリフに、先生は悲愴な声を漏らした。
強い覚悟を込めた質問に対して「バカか」と返されたら、否定されたように聞こえてしまうのだろうか。
本当に、この人は根っからネガティブだよな。
俺の気持ちはやはり、全然伝わっていないらしい。
「私は先生が望まずとも、一生涯、先生を愛し続けますよ。
……ただ出来れば、先生がいない世界でなんて、一秒たりとも息をしていたいとは思えないので、出来れば、二人ほぼ一緒に死ねたら、最高ですね」
「ほぼって、どういう意味?」
「ん〜、先生は私に告白してくれた時、私を死ぬまで愛し続けるって言ってくれましたよね?
先生は寂しがり屋だから、私が先に死んだら辛いでしょう?
だから、私は先生の死を見届けてから、その数秒後に死にます」
「出来れば、死んだ時の僕の年齢までは生きて欲しいのだけれど」
「断固お断りします」
「……そこまで僕の事を分かっておきながら死のうとした罰に、寿命までは生きなさいって言ったら?」
「…………ぐうの音も出ないっスねぇ……」
頭を打ってはいないか、ケガはないか。
そんな確認をしながら、非常に懐かしい、じゃれあいのような問答を繰り返す。
空気感が違う。
話している内容は楽しいものではなくても、隣にいるだけめ、自然と笑みが零れる。
安心出来る。
心拍も落ち着いているし、深く呼吸が出来る。
傍にいるだけで、安らげる人だ。
俺が愛したのは、他の誰でもない。
この人だ。
鬱や解離に支配された先生も、先生の一部なのは間違いない。
けれど、やっぱり私は、この先生が好きだ。
私が好きなのは、この先生なのだ。
見た目は先生なのに、分裂する前は先生だったはずなのに、それでも解離した人達は、先生とは全くの別人のように思える。
サイキさんのような別人格だけではない。
躁鬱によるテンションの違いによるものと判断している、自称己も先生だと名乗る、あの人達とも先生は違う。
自分の何もかもを差し出して犠牲にするのも厭わなくさせる程の、狂気じみた崇拝対象なのが、俺にとっての先生だ。
先生を崇める宗教があったら、真っ先に入信してどんな社会性に反した教えだろうと遂行してしまえる自信がある程に、私は先生無しではいられない。
そんな私の重い感情が嫌になって、でも未成年者を招き受け入れた責任があるから逃げるワケにもいかないと、別人格に私の相手をさせているのだろうかと疑った時もある。
けれど単に、先生を利用していたクソ共のせいで、表面に出る事が非常に困難になってしまっているだけなのだと説明された。
人と付き合う事、関わる事。
当たり前に出来る人がいる中で、親に虐待を受けた人はそれが酷く困難な事になる。
私もそうだ。
親から周囲の大人から、様々な人達に利用され虐げられて来た先生は特に、常に人の顔色を伺い過ぎる傾向にある。
そのためのエネルギーを使い果たしてしまったが故に、主人格の先生は長い眠りについて、そのエネルギーを充電している真っ最中なのだ。
それ自体は他の人格に聞いていたけれど、その事実は、私を酷く混乱させた。
解離を起こしている人と関わった事が無かったから、余計にだ。
頭では、理解をしているつもりだ。
それでも、見た目も声も間違いなく先生なのに、先生が言わないはずの言葉を平気で口にする何者かの相手を、何年もしなければならない状況は、酷く私を疲弊させた。
感情を置き去りにして、萎縮して本音を隠さないと成立しない関係が長過ぎたせいで、私が惚れた先生の輪郭は朧気になり、もはや存在しないのかと思ってしまう程に薄れてしまっていた。
けれど間違いなく、ココにいる。
主人格の先生は、ちゃんと中にいてくれた。
体臭すらも変化するのだから、不思議なものである。
「……君、僕の事嗅ぎすぎじゃない?
犬なの?」
「大型犬の子犬だと私の事を称したのは先生ですよ」
「身体は大きくなったけど、イメージは変わらないんだよねぇ……不思議なものだ」
この時ほど古い家で良かったと思わずにはいられない。
二階の窓から落ちた私達は、家に入る事が出来なかった。
当然のように、鍵なんて持ち歩いていないし、何とか雨樋を使って二階へ登れないかとも試みたが、雨樋がブチ折れてしまったためにそれも不可能。
玄関の扉を無理矢理持ち上げ、煙返し石の上から鍵が掛かった状態のまま扉をレール部分から外して、家の中へと入った。
ご近所の人から通報されなくて良かったと、心底思う。
風呂をいれている間にも、先生が首を吊って中で眠りについて以降の約一〇年、何があったのかを話した。
情報の共有は、されている所とされていない所があるようで、普段は中で少し目が覚め、微睡んでいる所に何があったのか、他の人格が要所要所を話し、限界が来たらまた寝る。
そんな事をずっと繰り返していたらしい。
なのに私が飛び降りた時なんかは、突然叩き起されて表面に押し出されたものだから、ろくに説明を受ける事もなく、混乱したまま後先も考えず私に飛び付いていたのだとか。
狭い風呂に入りながら、お互いこの二〇年の関係における反省会を開く事となった。
「どうせリフォームするなら、もっと広い風呂にしてくれれば良かったのに」
「二人で入る時に、くっつけるのが良いんじゃない」
「それこそ二〇年前ならまだしも、今の体格だとキツいですって。
せめて足を伸ばせる広さは欲しかった」
「君が手術をした時は、まだ成長期だったもんね。
僕なんて大人になってからだったから、全然身長伸びなかったんだよ。
いいなぁ……」
私も先生と同様、性分化疾患の状態で生まれた。
しかし先生と違い、私の場合は見た目はほぼ男のそれだったのめ外科的手術は必要なく、二次成長期に差し掛かった時から、幾度かのホルモン治療をしただけだ。
本当は継続的に受けた方が良いらしいのだが、実家を出て以降は受けていない。
遺伝子疾患なので性腺機能不全はあるが、早い段階で治療を受けられたお陰もあってか、見た目は完全に男性となった。
見た目の割には声が高いとか、ホルモンバランスが崩れると股間から血が出るとか、瀉血が必要なレベルで血が濃いとか、肝臓の数値が悪くなりやすいとか……
細々と不都合はあるけれど、まぁ、問題なく生活出来ている。
出生時から戸籍に登録されている性別は、変えなくて良かった。
名前も変えていない。
だが先生は、不全型アンドロゲン不応症の女性として産まれたが、性自認が男だったために、体内にあった精巣を体外に出す手術をして男になり、戸籍もその時変更した。
なにも関わらず、ホルモンバランスが崩れて男性ではいられなくなった。
現在はパッと見どっちか分からない、先生いわく、中途半端な状態になっている。
髭も定期的に一本しか濃いのが生えないし、不思議な形に乳房が微妙に若干膨らんでいる。
声も身長も、女性にしては低く高く、男性にしては高く低い。
今は戸籍は変更していないため男だが、肉体は女性に近いが子宮などの生殖器は持っていない。
そんな状態でいる。
私も人の事は言えないが、酷く、歪な存在だ。
性自認と実際の肉体の性別の食い違いにより、精神疾患を悪化させている部分はあるそうだ。
しかし、残念ながらどうする事も出来ない。
医者にでもなれば良かったのだろうか。
そんな詮無い事を考えた。




