第9話 わたし、たぶん死んでるよ
「なんで来たの」
帰りのバスの中で僕は訊いた。
夕方の環七は混んでいて、バスは一分に一度しか進まない。窓に西日が当たって、榛名の横顔が半分だけ光っていた。
「心配だったから」
「僕の話をしに行ったんだよ」
「知ってる」
彼女は前を向いたまま言った。
「わたしのこと、病気だって言われたら、透はどうするんだろうと思って」
「どうもしない」
「ほんとに?」
バスが停まった。誰も降りなかった。
「先生に、薬は出せないって言われた」
「よかったね」
「よくない」
僕は膝の上の紙袋を握った。中には検査結果の写しが入っている。全部の数字が正常だという紙が、五枚。
「異常が見つかったほうが、まだ楽だった」
榛名はそこで初めて僕のほうを向いた。
※
部屋に帰って鍋の火をつけた。
彼女は白菜を切りはじめた。相変わらず幅が揃っていない。僕は卓袱台の前に座ってその音を聞いていた。
包丁の音が途中で止まった。
「透」
「うん」
「言ってもいい?」
僕は返事をしなかった。
しなかったのに、彼女は続けた。
「わたし、たぶん死んでるよ」
鍋の湯が鳴りはじめていた。
「あなたの中でだけ生きてる、っていう意味じゃなくて」
まな板の上に、包丁が置かれた。
「物理的に、まだ決まってないの」
※
僕はそのとき自分が何を感じたのかを、いまでもうまく説明できない。
驚かなかった、というのが正確だと思う。
三十七枚のレシートを並べた日から、僕はずっと、この言葉が来るのを待っていた。待っていたものが来ると、人はあまり驚かない。
僕はいちばん先に、いちばんつまらないことを訊いた。
「いつから知ってた」
「最初から」
「最初って」
「目が覚めたときから」
榛名は台所の柱にもたれて両手を後ろに回した。
「三年前の、あの部屋で。目を開けたら、透がいたの。ドアの外に。ガラス越しに、あなたがこっちを見てた」
僕はその部屋を知らない。
「そのとき、なんとなく分かったんだよね。ああ、わたし、決まらなかったんだって」
「決まらなかった」
「死んだか、生きてるか。どっちかにならなかったの」
彼女は自分の手のひらを見た。
「みんなにとっては、決まってる。わたしは死んだ。ちゃんとお葬式もあったし、お墓もある。お母さんも泣いた」
湯が鳴っている。
「透にとってだけ、決まってない」
「なんで僕だけなんだ」
榛名は答えなかった。
代わりに、火を弱めた。
※
鍋の中で豆腐が揺れていた。
「透」
「うん」
「あなた、泣かないんだね」
僕は湯気を見ていた。
白い塊が立ち上って天井の手前で消えていく。消えているのではなく、見えなくなっているだけだ。空気に混ざって、薄くなって境界がなくなる。それだけのことだ。
「泣いたら」
僕は言った。
「確かめたことになる」
榛名がゆっくりとこちらを向いた。
僕は目を逸らさなかった。三年ぶりに、逸らさなかった。
「泣くっていうのは、いなくなったって認めることだろ。認めたら、決まる」
「……そうだね」
「だから泣かない」
彼女は少し笑った。
笑って、それから、袖で目を拭った。
拭った袖の色が変わらなかった。
僕はそれを見なかったことにした。




