第10話 彼女の写真が、一枚もない
その夜、僕は携帯の写真を全部見た。
二千三百十四枚あった。
ゲラの写真、書棚の写真、電球の型番の写真、駐輪場の張り紙の写真。仕事で撮ったものが七割を占める。残りは意味の分からないものばかりだった。曇った空。信号の柱。定食屋の券売機。
榛名が写っている写真は、一枚もなかった。
僕は三度、頭から見返した。三度目は一枚ずつ拡大した。背景に彼女の靴が写っていないか、鏡に映っていないか、それだけを探した。
無かった。
四年だ。四年間、同じ部屋で暮らして、一緒に飯を食って二回は旅行にも行った。
一枚も撮らないということが、あるだろうか。
僕は写真を撮る人間ではない。それは本当だ。だが駐輪場の張り紙は撮る。電球の型番は撮る。
撮らなかったのではなく、撮れなかったのだ。
※
彼女のSNSはすぐに見つかった。
鍵はかかっていなかった。最後の投稿は三年前の十月十六日で白菜の写真だった。
——白菜たか。半分でゆるして
その下に、二百三十七件のコメントがついていた。
——うそだよね
——信じられません
——先週会ったばかりなのに
——榛名ちゃん、安らかに
——お母様のこと考えると言葉がありません
日付は全部、三年前の十月十八日以降だった。
いちばん新しいコメントは、今年の十月十四日についていた。三日前だ。
——三年経ちました。まだ受け入れられません
僕はその一行を、長いこと見ていた。
三年経った、と誰かが書いている。
三年経ったと書けるのは、終わったことについてだけだ。
※
電話をかけた。
院のときの後輩で矢口という男だ。いまは電機メーカーにいる。三年会っていない。
呼び出し音が七回鳴って出た。
「うわ、高梨さん。久しぶりすぎません?」
「悪い。急に」
「いいっすけど、どうしたんですか」
僕はなるべく世間話のような声を作った。
「昔の話で確認したいことがあって。相模原の、基礎機構の」
電話の向こうで空気が変わった。
「……ああ」
「望月さんって覚えてるか」
「望月さん」
矢口は少し黙った。
「受付にいた人ですよね。あの、亡くなった」
僕は携帯を持ち直した。
「亡くなった」
「事故で。高梨さん、あのとき現場にいたって聞きましたけど」
「誰から」
「宗像先生から。あのあと高梨さん、大学来なくなったじゃないですか。俺、心配して先生に訊いたんですよ。そしたら」
矢口の声が少しずつ小さくなっていく。
「そしたら、なんて」
「……見ちゃったんだよ、って」
僕は窓のほうを見た。
カーテンが閉まっている。閉めた覚えはない。
「すいません、俺、変なこと言いました?」
「いや」
「高梨さん、大丈夫ですか」
「大丈夫だ。ありがとう」
僕は電話を切った。
※
最後にもう一度、写真を開いた。
いちばん新しい一枚は、昨日の夜のものだった。撮った覚えがない。
卓袱台の写真だった。
鍋がひとつ。
茶碗がふたつ。
片方には汁が入っていて、片方は空だった。
僕はそれを拡大した。
空のほうの茶碗の縁に、指の痕がついていた。
小さい。
僕の指ではこの幅にならない。
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