第8話 初診料が、二人分になっている
心療内科の待合室は、思っていたより明るかった。
薄い緑の壁で、観葉植物が二鉢あって、天井のスピーカーからピアノが流れている。雑誌は園芸と旅行のものばかりだった。誰も読んでいない。
受付で保険証を出したとき、事務の女性が画面を見て言った。
「二名様ですね」
「一人です」
彼女は僕の顔を見て、それから画面に目を戻した。
一秒。
「……あ、失礼しました。一名様ですね」
その一秒を、僕は測った。測る癖がついていた。
※
医師は五十くらいの男で、僕の話を最後まで黙って聞いた。
途中で頷きもしなければ、メモも取らなかった。聞き終えてから、はじめてキーボードを叩いた。
「見えている、というのは視覚だけですか」
「全部です。声も、触った感じも、匂いも」
「触った感じ、というのは」
「手を握ると、体温があります。皮膚の抵抗も、脈も」
「脈」
医師が僕を見た。
「数えたんですね」
「数えました」
「いくつでした」
「七十二」
彼はまたキーボードを叩いた。
「幻覚を伴う患者さんの多くは、現実感の欠如を訴えます。世界が薄い、自分が自分でない、そういう言い方をされる。あなたには、それがない」
「ないです」
「むしろ、細かすぎる」
「細かいのは仕事です」
医師は少しだけ口の端を動かした。笑ったのかもしれない。
※
血液検査と、脳の画像と、いくつかの問診票をやらされた。
結果が出るまでに二時間かかった。その間、僕は待合の椅子に座って、園芸雑誌の写真だけをめくった。文字を読むと、自動的に校正がはじまってしまう。
呼ばれて診察室に戻った。
「異常なしです」
医師は画面を僕のほうに向けた。数字が並んでいる。全部が基準値の内側に入っている。
「脳のほうも、器質的な所見はありません。てんかん性の波もない。薬物の反応もない。睡眠は取れているとのことでしたね」
「取れてます」
「食欲は」
「あります」
「体重は」
「変わってません」
医師は画面を戻した。
「正直に申し上げると、私はあなたに出す薬を持っていません」
僕は膝の上で指を組んだ。
「先生」
「はい」
「僕の話を、信じますか」
医師はしばらく黙っていた。
それから、机の上のペンをまっすぐに直した。
「信じるかどうかは、診断ではありません」
「じゃあ、診断としては」
「診断としては、こう書きます。——本人の訴えに対応する所見なし」
彼はキーボードに手を置いた。
「これは、あなたが嘘をついているという意味ではありません。私に見えるものの中に、それが無いという意味です」
僕はその言葉を頭のなかで二回繰り返した。
私に見えるものの中に、それが無い。
それは僕がゲラの余白に書き続けてきた言葉と、ほとんど同じだった。
※
会計で明細を渡された。
初診料。血液検査。画像診断。
いちばん下に、もう一行あった。
——初診料 1名
その上に、もう一行。
——初診料 1名
同じ行が二つ並んでいた。
合計金額は二人分だった。
僕は財布を出して二人分を払った。
払ってから会計の女性に訊いた。
「これ、二回打ってませんか」
彼女は明細を受け取って、画面と見比べて首をかしげた。
それから、こう言った。
「いえ、お二人でお越しですから」
僕は振り返った。
待合の椅子に、榛名が座っていた。
園芸雑誌を、逆さに持っていた。




