第7話 わたし、一個だけ嘘ついてる
僕たちが初めて話したのはあの施設の食堂だった。
四年前の初夏だ。共同研究の打ち合わせで月に二度、相模原の山まで通っていた。バスが一時間に一本しかなくて、打ち合わせが早く終わると、次のバスまで二時間近く空く。だから僕はいつも食堂の隅で時間を潰していた。
榛名は事務補助のアルバイトだった。
厚生棟の受付にいて、来訪者に入館証を渡す仕事をしていた。昼になると食堂に来て、いちばん安い定食を食べて、いちばん端の席で文庫本を読んでいた。
最初に喋ったのは彼女のほうからだった。
「それ、面白い?」
僕が読んでいたのは、量子測定理論の教科書だった。面白いはずがない。
「面白くない」
「じゃあなんで読んでるの」
「読まないと困るから」
「変なの」
彼女は笑った。その笑い方があまりに屈託がなかったので、僕は少しだけ腹が立った。腹が立ったことを覚えているということは、たぶんそのときにはもう、なにかが始まっていたのだと思う。
※
榛名は料理ができない。
できないというか、鍋しか作れない。
付き合いはじめて最初の冬、彼女が「作る」と言って僕の部屋に来た日、買い物袋から出てきたのは白菜と豚バラと豆腐とうどんだった。
次の週も同じだった。
その次も同じだった。
四回目に、僕は訊いた。
「鍋、好きなの」
「好き」
「他のは」
榛名は白菜を切る手を止めた。彼女の包丁の使い方は雑で白菜の幅が全部違う。
「作れない」
「ひとつも?」
「ひとつも」
彼女は残りの白菜を、さらに雑に切った。
「お母さん、夜の仕事だったの。九時くらいに出てって朝に帰ってくる。だから晩ごはんは、わたしが自分で作んなきゃいけなくて」
包丁がまな板を鳴らす。
「小三のとき、鍋を教わったの。切って、入れて火をつけるだけだから。それで、それだけ覚えてあとは覚えなかった」
「覚えなくてよかったの」
「よくはなかったけど、鍋で足りたから」
彼女は豚バラのパックを開けようとして開けられずに僕に渡した。
「あとね、鍋っていいの。一人でも二人でも同じ鍋なんだよ。おかず作ると、一人分と二人分ではっきり違うでしょ。鍋は違わないの。同じ鍋を、二人で食べるだけ」
僕はパックを開けて返した。
「一人で食べてたときは」
「同じ鍋を、一人で食べてた」
彼女は肉を鍋に入れた。ばらばらと落ちて湯が濁った。
※
その話を思い出したのは、榛名が鍋の灰汁を取っているのを見ていたときだった。
彼女はお玉で灰汁をすくって小皿にあける。何度もやる。神経質なくらいやる。料理はできないのに、灰汁だけは完璧に取る。
「なに見てるの」
「灰汁」
「取りすぎ?」
「取りすぎ」
榛名は笑ってもう一回すくった。
それから、火を弱めて僕のほうを向いた。
「透」
「うん」
「わたしね、あなたに一個だけ嘘ついてる」
鍋が静かに鳴っていた。
僕は箸を置かなかった。置いたら、聞く体勢になってしまう。
「なに」
「まだ言わない」
「なんで」
「言うと、決まっちゃうから」
彼女はそう言った。
僕はそのときはまだ、その言葉の意味が分からなかった。
分からないまま、その夜の鍋を、二人で食べた。
白菜は幅が全部違って、豆腐は崩れていて、うどんは入れるのが早すぎて伸びていた。
うまかった。




