最終話 私は、扉の前に立っている
四月になって、山の道に椿が落ちるようになった。
バスはいまも一時間に一本しかない。「基礎機構前」で降りるのはたいてい私ひとりだ。
三棟目の建物は機構の管理から外れた。看板が一枚、増えている。
——立入制限区域 内閣府事象整合室
鍵は二本ある。一本は郡司さんが持っている。もう一本は資料管理課の私が持っている。
※
高梨透さんの死亡は、まだ確定していない。
行方不明者として届が出されている。届出人は勤務先の岸田聡さんだった。あの方は三度、機構まで来られた。三度とも、正門で断られてそのまま帰られた。
四度目に、私が正門まで出て行った。
岸田さんはゲラの束を持っていた。
「二百三ページ、著者に確認しました。昭和四十三年が正しいそうです」
それだけ言って帰られた。
私はその場に立っていた。
あの方は高梨さんがどこにいるかを、たぶん察している。察していて、訊かない。
※
望月佐和子さんには、手紙を届けた。
高梨さんから預かった六通のうち、五通は郵便で出した。あの一通だけ、私が持って行った。
小平の、四階建ての、右から三つ目の部屋だった。
あの方は玄関で封を開けてその場で読まれた。
読み終えてしばらく黙っておられた。
それから、こう言われた。
「沢渡さん。ひとつ、伺っていいですか」
「はい」
「あの日、あの子は、一人でしたか」
私は答えた。
嘘はつかなかった。
「食堂で、二人分のうどんを買っています。記録が残っています」
あの方は頷いた。
頷いて、それから、初めて泣かれた。
三年目の春に、初めて。
※
五章を、書き終えた。
三年と半年かかった。
題目は変えなかった。
——第五章 観測されなかった側について
冒頭の一行はこう書いた。
——この章を読む人へ。この章は実験の成否について述べるものではない。
※
私が書いたことは、単純だ。
WF‐3は成功した。
箱の中の観測者と、箱の外の観測者が、両立しない事実を持った。それは三年半にわたって両方とも消えなかった。
これは失敗の記録ではない。
成功の記録である。
そして、その成功は、一人の人間を、どちらでもない場所に置き去りにした。
私たちは観測されなかった側について、何も知らない。
知らないだけではない。
知る方法が原理的に無い。
開ければ、決まる。決まれば、それは、開けたあとの事実であって開ける前の事実ではない。
だから私たちは観測されなかった側について、永久に何も書けない。
※
この報告書を、私は提出していない。
書き終えた原稿は、四百二十ページある。机の上に置いてある。
出せば、あれは記録になる。
記録は複製される。
複製されれば、いずれ多数派になる。
多数派になったとき、そこに何が書かれているかを、私は知っている。
——望月榛名は三年前の事故により死亡した。
私が三年半かけて書いたどの章にも、その一行が、必ず入っている。
入れずに書くことは、できなかった。
※
高梨さんに、言えなかったことがある。
あの方は私に嘘をついてくれと言った。私は三つの理由で断った。
三つとも、本当のことだった。
だが四つ目があった。
四つ目は言わなかった。
——私はあの部屋の中に、まだ何かがあると思っている。
科学者がそれを言ってはいけない。
言えば、それは仮説になる。仮説は検証される。検証とは開けることだ。
だから私は言わなかった。
※
今日、私は原稿を持って三棟目に来た。
廊下は白い。蛍光灯が等間隔に並んでいる。ベンチはない。掲示物もない。
突き当たりに、扉がある。
鋼鉄の、大きな扉。中央に、直径十五センチの丸い窓。
私はその前に立った。
三年半、この扉の前を、何百回も通った。一度も、中に入らなかった。一度も、窓を覗かなかった。
※
原稿を、左手に持ち替えた。
右手を、上げた。
窓に、手のひらを当てた。
冷たかった。
三年前、この同じ場所に、二つの手が触れている。
一つは外から。一つは内から。
※
私は覗かなかった。
覗けば、決まる。
私が見た時点で、中の状態は、私の側の事実に引き寄せられる。私は外の人間だ。外の複製を、何百も抱えている人間だ。私が覗けば、その全部が、あの部屋の中に入っていく。
だから、覗かない。
※
右手を、下ろした。
左手の原稿を、見た。
四百二十ページ。三年半。書けなかった章の題目を決めるのに、六日かかった。
私はこの原稿を出さない。
出さないことを、今日、決めた。
科学者としてそれは終わりだ。書いたものを出さない人間を、そう呼ぶ理由は、どこにもない。
それでいい。
私は三年半かけてひとつだけ学んだ。
事実は見た人の数で決まる。
ならば、見ないという選び方が、ひとつだけ残っている。
※
廊下の照明を、消した。
扉の窓が暗くなった。
私はそこにしばらく立っていた。
中からは何も聞こえない。
千二百ミリの壁は、音を通さない。振動も、熱も、電磁場も通さない。三年前にあの人が計算したとおりだ。
何も、漏れてこない。
※
中に、二人いるのか、一人いるのか、誰もいないのか。
鍋を食べているのか、床に倒れているのか、最初から何も無かったのか。
私は知らない。
知らないままにしておく。
※
——それが私の観測だ。
(了)
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