第59話 鍋は、あった
鍋はあった。
あるはずがない。
物は何一つ持ち込んでいない。この部屋は三年間、空だった。床にも壁にも、装置を置いた跡が四角く残っているだけだ。
あるはずがない。
だが無いと確かめた者も、いない。
※
暗闇の中で水の音がした。
鍋に水を張る音だ。四年間、毎週のように聞いた音だった。
それから、金属が金属に載る音。
火のつく音。
「白菜、切るね」
「切れるのか」
「切れる」
まな板を叩く音がした。
幅はたぶん、揃っていない。
※
僕は床に座っていた。
灰色の金属の床は、いつのまにか、畳のような感触になっていた。
なっていた、というより、確かめていない。
確かめなければ、そのままだ。
「透」
「うん」
「豚バラのパック、開けて」
僕は手を伸ばした。
手のひらに、冷たいものが載った。
僕はそれを開けた。開けられた。
中身を鍋に入れた。
ばらばらと落ちて湯が濁った音がした。
※
匂いがした。
白菜と、豚と、出汁の匂いだ。
僕は目を閉じた。閉じても閉じなくても同じなのに、閉じた。
「透」
「うん」
「灰汁、取りすぎって言わないの」
「言わない」
「なんで」
「今日は、取りすぎていい」
お玉が鍋の縁を叩く音がした。
※
豆腐を入れた。
崩れた。
うどんを入れた。
早すぎた。
「早い」
「早いな」
「透、四年間ずっと早いよ」
「知ってる」
「知っててやるの」
「知っててやる」
彼女が笑った。
※
茶碗が二つあった。
どちらが僕のもので、どちらが彼女のものかは、暗くて分からない。
分からないまま、片方を取った。
汁をよそって両手で包んだ。
彼女がいつもやっていた持ち方を、初めてやってみた。
熱かった。
熱いものを手のひらで持って飲むまでに時間をかける。
あったかいのが減っていくのが、もったいないから。
そういう理屈だったと思う。
理屈にはなっていない。彼女はそういう理屈の使い方をする。
※
僕たちは鍋を食べた。
うどんは伸びていた。豆腐は崩れていた。白菜の芯だけが妙に固い形を保っていた。
うまかった。
「透」
「うん」
「これ、何回目の鍋だろうね」
「わからない」
「数えてないの」
「数えてない」
僕は茶碗を置いた。
「数えると、記録になる」
榛名は少し黙った。
「そっか」
それから、言った。
「じゃあ、数えないでおこう」
※
外で、何が起きているのかは、知らない。
僕の部屋はもう引き払われた。荷物は無い。鍋と茶碗だけ、六畳の真ん中に置いてきた。誰かが入ってそれを見ただろうか。
岸田さんはゲラの二百三ページを著者に投げただろうか。
七尾さんはまだうどんを二人分頼んでいるだろうか。
ケイは学校に戻れただろうか。戻れて、そして、黙っていられているだろうか。
望月佐和子はあの手紙を読んだだろうか。読んで、あの子が一人ではなかったと知って、それで、何か変わっただろうか。
沢渡詩織は第五章を書き終えただろうか。
僕は知らない。
知らないままにしておく。
知れば、それは届いてしまう。
※
鍋が静かに鳴っていた。
「透」
「うん」
「わたし、いま、けっこう嬉しい」
僕は暗闇の中で頷いた。
頷いたことはたぶん、伝わらなかった。
「豆腐すくえて嬉しいって、どういう人生だって前に言ったよね」
「言った」
「でも、いま、それだよ」
彼女は少し笑った。
「豆腐すくえて嬉しい」
※
僕は手を伸ばした。
彼女の手を探して、見つけて握った。
脈を数えなかった。
もう、数えなくていい。
※
この部屋の外で僕は行方不明になっている。
しばらくすれば、死んだことになるだろう。書類が揃って、複製が増えて、誰かが僕のことを、何年か前に消えた人だと言うようになる。
それでいい。
外にとって僕は死んでいる。
外にとって彼女も死んでいる。
僕たちは外にとって二人とも死んでいる。
※
中では鍋が煮えている。
白菜の幅は揃っていない。
うどんは伸びている。
豆腐は崩れている。
彼女の脈は七十二だ。
これが僕の事実だ。
誰とも照合しない。誰にも見せない。複製もしない。
だから、これはいつまでも決まらない。
決まらないまま、続く。
※
「おかわり、いる?」
「いる」
「うどん、まだあるよ」
「入れてくれ」
「早く入れると伸びるよ」
「伸びていい」
彼女が笑った。
鍋の蓋が開く音がした。




