第58話 ガラス一枚を挟んで、手が重なった
僕は最初のうち、数を数えていた。
呼吸を数えた。千まで数えてやめた。もう一度千まで数えてやめた。
三度目で、自分が何のために数えているのかが分からなくなった。
時間を測っても、測った時間を照合する相手がいない。
照合されない数字は、記録にならない。
僕は数えるのをやめた。
やめてから、少し、楽になった。
※
榛名はよく喋った。
外にいたときの三倍は喋った。声が出るのが嬉しいのだと、彼女は言った。
高校の文化祭の話をした。七尾さんと二人でクレープを焼いて、生地を三十枚焦がした話だ。
母親の腰の話もした。夜勤明けに湿布を貼るのを、小学生の榛名が手伝っていたという。
僕は自分の話をした。
子どものころ、人の目を見られなかった話。母に言われた話。式を睨みすぎると答えのほうが寄ってくる話。
彼女は全部、初めて聞くという顔で聞いた。
三年間、僕が眠っている横で、彼女がずっと喋っていたことを思うと、順番が来ただけだという気もした。
※
どれくらい経ったころか、扉のほうが、明るくなった。
丸い窓に、光が当たっていた。
廊下の照明がついたのだ。
僕は立ち上がった。
「透」
榛名の声が後ろでした。
「見ないほうがいいよ」
「わかってる」
わかっていて、僕は歩いた。
三歩で扉の前に着いた。
※
窓の向こうに、顔があった。
郡司だった。
三か月ぶりか、三日ぶりか、僕には分からない。彼の髪は少しだけ伸びていた。
彼はこちらを見ていた。
僕を見つけて少しだけ顎を引いた。
僕も、同じことをした。
※
音は何も聞こえない。
彼の口が動いた。
三つか、四つの言葉だった。
読み取れなかった。読み取ろうとして途中でやめた。
読み取れば、それは、外の情報を受け取ることになる。
彼はそれが伝わらないことを、たぶん知っていた。
知っていて、言った。
※
郡司は上着の内ポケットに手を入れた。
小さいものを出した。
古い定期入れだった。革が擦り切れて角が丸くなっている。
彼はそれを開いて、窓に近づけた。
写真が入っていた。
制服を着た女の子だった。中学生くらいだ。前髪をきちんと分けていて、少し困ったような顔で笑っている。
写真の下に、細い字で日付が書いてあった。
平成十四年三月。
僕はその数字を見た。
※
三十秒で八百メートル進む。
二両目で配電盤が燃えていた。
彼はそう言った。あの日、彼は調査のためにその列車に乗っていたと言った。
乗っていた、としか言わなかった。
誰と乗っていたかは、言わなかった。
※
僕は窓に手をついた。
右手だった。ガラスは冷たかった。
郡司は定期入れを閉じてポケットに戻した。
それから、左手を上げた。
火傷の痕のある手のひらを、ガラスの外側に当てた。
同じ場所だった。
僕の手と、彼の手が、十五センチの円の中で、ガラス一枚を挟んで重なった。
三年前、僕はこの窓に、外側から手をついていた。
いま、内側からついている。
※
郡司は手を離した。
離して一歩下がった。
もう一度、少しだけ顎を引いた。
それから、廊下の奥へ歩いていった。
僕はその背中が見えなくなるまで見ていた。
見て、しばらくして廊下の照明が消えた。
※
振り返ると、榛名の輪郭が、揺れていた。
揺れていたのではない。
ぶれていた。
二重に、なりかけていた。
「榛名」
「大丈夫」
彼女は両手を上げて自分の指を見ていた。
「ちょっと、薄くなっただけ」
「見たからか」
「たぶんね」
彼女は少し笑った。
「透が、あの人を見たから。あの人、外の人だもん」
※
僕は扉に背を向けた。
窓はもう暗い。廊下の照明が消えているから、何も見えない。
だがいつかまた、誰かが照明をつける。
つければ、光が入る。
光が入れば、僕は見てしまう。
見てしまえば、外が入ってくる。
※
部屋の照明のスイッチは、扉の内側にあった。
僕はそこに手をかけた。
かけて榛名のほうを見た。
彼女は部屋の中央に立っていた。
輪郭はまだ少しぶれていた。
「消すぞ」
「うん」
「ずっとだ」
「うん」
「怖くないか」
榛名は首を横に振った。
「暗いのは平気」
彼女は言った。
「見えなくても、いるでしょ」
※
僕はスイッチを押した。
部屋が暗くなった。
完全な暗闇だった。窓のない部屋の、照明を消した暗闇は、目が慣れても何も見えない。
三十秒、僕は動かなかった。
※
「透」
闇の中で声がした。
「うん」
「手」
僕は手を伸ばした。
何も見えないまま、伸ばした。
指が何かに触れた。
温かかった。
握り返された。
※
僕はそこで初めて理解した。
三年間、僕は目を逸らす自分を恥じてきた。
母に言われた。人の目を見ない子だと。
いま、僕は、何も見ていない。
見ないことを、選んで見ていない。
これは逸らすことではない。
これは決めることだ。
※
闇の中で、彼女の手を握ったまま、僕は言った。
「榛名」
「うん」
「腹、減ったな」
彼女は笑った。
その笑い方は四年前と同じだった。
「じゃあ」
彼女は言った。
「鍋にしよっか」




