第57話 ここなら、決まらないでしょ
僕は手を伸ばした。
榛名も、手を伸ばした。
指が触れた。
触れて止まった。通り抜けなかった。
温度があった。
皮膚の抵抗があった。
僕は彼女の手首を掴んで指を三本当てた。
「なにしてるの」
「脈」
「また?」
「また」
三十秒、数えた。
七十二だった。
※
彼女は泣かなかった。
泣く代わりに、僕の胸を、拳で二回叩いた。
叩いたのは四年間で初めてだった。
「ばか」
「うん」
「ほんとに、ばか」
「うん」
彼女はそのまま額を僕の胸につけた。
しばらく、そうしていた。
部屋は静かだった。
空調の音もない。外の音もない。ここには、音を運んでくるものが何もない。
聞こえるのは彼女の呼吸だけだった。
※
どれくらい、そうしていたのかは分からない。
時計は持っていない。持ち込めなかった。
腹は減らなかった。
喉も渇かなかった。
眠くもならなかった。
僕はそれを、おかしいと思わないことにした。
中では何も決まらない。僕が減るのかどうかも、まだ決まっていない。
※
「透」
やがて榛名が言った。
「うん」
「わたし、嘘、言っていい?」
僕は彼女の頭に手を置いた。
「嘘を言うのか」
「違う。嘘を、言う」
彼女は顔を上げた。
「前に言ったでしょ。一個だけ嘘ついてるって」
僕は覚えていた。
四年前の冬だ。彼女が灰汁を取りすぎていた夜だ。
「言うと決まっちゃうから、まだ言わないって言った」
「言った」
「ここなら、決まらないでしょ」
榛名はそう言って少しだけ笑った。
※
彼女は床に座った。
僕も、隣に座った。灰色の金属の床は、思ったより冷たくなかった。
「わたし、あの実験、志願したの」
僕は彼女のほうを見なかった。
見ないほうが話しやすいだろうと思った。
「頼まれたんじゃないの。自分から手を挙げたの」
「……そうか」
「透には、頼まれたって言った。断れなかったって言った。あれ、嘘」
彼女は膝を抱えた。
「謝礼が、一回二十万だったの」
※
「お母さん、腰やっちゃって」
榛名は灰色の壁を見ていた。
「夜の仕事、立ちっぱなしだから。もう無理だって言われて。それで、辞めることになって」
「聞いてない」
「言わなかったから」
彼女は膝の上で指を組んだ。
「三回目から七回目までわたしが入った。五回で百万」
僕は床の継ぎ目を見ていた。
継ぎ目は無かった。
「透が、あの実験に反対してるのも、知ってた」
榛名は言った。
「窓のことで意見書出したのも知ってた。宮田さんが教えてくれた」
「……」
「知ってて手を挙げた」
※
僕はしばらく何も言えなかった。
言えないまま、自分の呼吸を数えていた。
「なんで、いままで言わなかった」
「言えなかったの」
「なんで」
榛名はそこで初めて言葉に詰まった。
詰まって、しばらく黙って、それから言った。
「透が、自分のせいだと思ってたから」
僕の指が床から離れた。
「壁の計算をしたのは自分だ、窓を止められなかったのは自分だってずっと思ってたでしょ」
「思ってた」
「わたしが、志願したって言ったら」
彼女は自分の手を見た。
「透、たぶん、楽になっちゃう」
※
部屋のなかは静かだった。
僕は何かを言おうとして、口を開いて、閉じた。
「楽になったら、透は、わたしのこと、置いていける」
榛名は言った。
声は震えていなかった。
震えていないことが、いちばんこたえた。
「置いていったら、わたし、決まっちゃう」
「榛名」
「三年間、わたし、あなたの罪悪感で生きてたの」
彼女は僕を見た。
「言わなかったんじゃないの。使ってたの」
※
僕は両手で顔を覆った。
覆ってしばらくそうしていた。
「怒った?」
彼女が訊いた。
僕は首を横に振った。
振ってから顔を上げた。
「榛名」
「うん」
「僕は三年前、君が志願したことを知らなかった」
「うん」
「知らなかったから、僕は、自分のせいだと思ってた」
僕は彼女の顔を見た。
「いま聞いたけど、僕は、まだ自分のせいだと思ってる」
榛名の目が大きくなった。
「壁を計算したのは僕だ。窓を止められなかったのも僕だ。君が手を挙げた理由を、知らなかったのも僕だ」
僕は言った。
「君の嘘は、何も変えなかった」
※
彼女は口を開けた。
開けて何も言わなかった。
それから、両手で自分の顔を覆った。
覆った手の間から、音が漏れた。
初めて聞く泣き方だった。
三年前、この部屋で、たった一人で決まらなかった人の泣き方だった。
僕はその背中に手を置いた。
置いた手は通り抜けなかった。




