第56話 開けません
一月三十一日は晴れていた。
バスは一時間に一本のままだった。「基礎機構前」で降りたのは僕ひとりだった。三年前と同じだ。
正門に、郡司が立っていた。
その隣に、沢渡詩織がいた。
※
「沢渡さん」
僕が名前を呼ぶと、彼女は少しだけ頭を下げた。
「立会人です」
郡司が言った。
「規程上、封鎖には、機構側の立会いが要ります。資料管理課の担当者に依頼しました」
詩織は封緘資料の鍵を持っていた。
三年間、あの部屋の前を通って、中に入らなかった人が、いま、その鍵を持って正門に立っている。
僕は何も言わなかった。
言うことが思いつかなかった。
※
三棟目の建物は外から見たとおりだった。
窓がない。
図面で見た形がそのままそこにあった。壁の厚さは千二百ミリ。外から順に、鋼板、制振ゴム、鉛、真空層、無酸素銅、ミューメタル、また真空層。基礎は建屋から切り離してある。
三年前、僕が数字を出した。
その中に、いまから入る。
※
廊下は思ったより明るかった。
白い壁で、蛍光灯が等間隔に並んでいる。何もない廊下だ。ベンチもない。掲示物もない。
その突き当たりに、扉があった。
鋼鉄の、大きな扉。取っ手ではなく、レバーがついている。
その中央に、丸い窓があった。
直径、十五センチ。
※
僕はその前で立ち止まった。
三年前、僕はここに六時間いたという。
座り込んでこの窓に片手をついていた。
覚えていない。
覚えていないのに、足の裏が、この床の硬さを知っていた。
「高梨さん」
詩織が言った。
「はい」
「最後に、確認をさせてください」
彼女はまっすぐ立っていた。
「あなたは、この中で亡くなる可能性が高い。それはご承知ですね」
「承知しています」
「私はそれを止める立場にありません。ですが訊く立場にはあります」
彼女の声は揺れていなかった。
「後悔しますか」
僕は少し考えた。
「します」
正直に言った。
「たぶん、中に入って三日目くらいに、後悔します」
詩織はまばたきをした。
「それでも、行きます」
※
郡司が書類を出した。
僕は廊下でもう一度署名した。
封鎖の日付。時刻。立会人の名前。
沢渡詩織が二番目に署名した。
彼女の字はまっすぐだった。
※
扉のレバーが下ろされた。
重い音がした。金属が金属の上を滑る音だ。
扉が開いた。
中は暗かった。
照明は内側の壁に一つだけある。郡司が廊下側のスイッチを入れた。白い光がついた。
六畳ほどの部屋だった。
何もなかった。
床も壁も天井も、同じ灰色の金属で継ぎ目がない。中央に、装置を置いていた跡だけが、四角く残っていた。
三年前、ここに、望月榛名がいた。
※
僕は榛名を見た。
彼女は廊下の真ん中に立っていた。
三年ぶりのこの場所で、彼女は、動かなかった。
「入れるか」
僕が訊くと、彼女は頷いた。
頷いて、それから、首を横に振った。
「怖い」
「うん」
「でも、行く」
※
僕は扉の前で二人のほうを向いた。
郡司は書類を鞄に入れているところだった。
詩織は両手を体の前で揃えて立っていた。
「ありがとうございました」
僕が言うと、郡司は少しだけ顎を引いた。
詩織は何も言わなかった。
言わずに、頭を下げた。
深い礼だった。
中野の部屋で、榛名に向かって下げたのと、同じ角度だった。
※
僕は中に入った。
一歩、二歩、三歩。
振り返った。
扉の向こうに、白い廊下が見えた。
その光が扉の幅の分だけ、床に伸びていた。
郡司がレバーに手をかけた。
左手だった。
火傷の痕が蛍光灯の下で白く光った。
「高梨さん」
彼は言った。
「はい」
「開けません」
僕は頷いた。
扉が閉まった。
※
光が細くなった。
細くなって、線になって消えた。
金属が噛み合う音がした。
それから、低い音が始まった。
遮蔽が起動する音だ。三年前、僕が計算した装置が、いま、僕を外から切り離している。
音は三十秒ほど続いて、止まった。
止まったあと、部屋は、完全に静かになった。
外の音は何も聞こえなかった。
※
振り返ると、榛名がいた。
立っていた。
両足で、床を踏んで立っていた。
輪郭が揺れていた。
肩が息をするたびに動いていた。
髪の先が空気の流れで揺れていた。
「透」
彼女は両手を上げて自分の手のひらを見た。
見て僕を見た。
「わたし、指、動く」




