第55話 いちばん都合のいい結末です
郡司とは四谷の同じ部屋で会った。
ブラインドはいつもどおり下りていた。長机に椅子が四脚。彼はいつもどおりコーヒーを頼んで、いつもどおり一口も飲まなかった。
「第三隔離実験室に、入れてください」
僕がそう言うと、彼は初めて、顔を上げるのに時間をかけた。
「理由を伺えますか」
「中にいれば、外の記録が届きません」
「はい」
「届かなければ、僕にとって彼女の死は決まりません」
郡司はコーヒーカップの縁を、右手の指でなぞった。
左手は鞄の上に置かれたままだった。
「出てこられないことは、ご存じですね」
「知っています」
「食料も、水も、置けません。あの部屋に物を持ち込めば、外部との相関が発生します」
「知っています」
「では、あなたは中で亡くなります」
「決まりません」
僕は言った。
「誰かが開けるまでは」
※
郡司はしばらく黙っていた。
彼が黙るのを見るのは二度目だった。
「高梨さん」
「はい」
「これは、私にとって、いちばん都合のいい結末です」
彼は正直に言った。
「あなたは、この三年間で唯一、少数派の事実を持ったまま動き回っている人間です。私はあなたを整合できずにいます。あなたが自分から、外と情報のやりとりをしない場所へ入ってくださるなら」
彼は指を止めた。
「私の仕事は、終わります」
「わかっています」
「わかっていて、頼むのですね」
「頼みます」
※
郡司は鞄を開けた。
中から、あの白い紙を出した。
——事実整合に関する同意書
三か月前に、卓袱台に置いていったのと、同じ書式のものだった。
「署名していただきます」
「合わせるという意味ですか」
「違います」
彼は僕のほうへ紙を滑らせた。
「二枚目をご覧ください」
僕はめくった。
——本人の申し出により、事象の整合を、隔離環境への自発的移行によって行うものとする。
——移行後、当該事象に係る記録は、外部において確定した内容をもって整合済とみなす。
——移行者の生死は、開扉時まで確定しないものとして扱う。
三行目に、僕は指を置いた。
「これ、あなたが書いたんですか」
「昨日、書きました」
郡司は言った。
「役所の文書に、こういう一行を入れたのは私が初めてです」
※
僕はペンを取った。
取って、署名の前に、一つだけ訊いた。
「郡司さん」
「はい」
「あの部屋は、誰が管理しますか」
「事象整合室です」
彼は即答した。
「移行と同時に、第三隔離実験室は封鎖されます。機構の管理から外れて私どもの管理になります。以後、開扉には整合室長の決裁が要ります」
「室長は」
「私です」
僕はペンを持つ手を止めた。
「あなたが、開けないと約束してくれるんですか」
「約束はしません」
郡司は言った。
「約束は、記録になります。記録は複製されます」
彼は僕の目を見た。
「私は何も書かずに、開けません」
※
僕は署名した。
高梨透、と書いた。
三年ぶりに、自分の名前を、まっすぐ書いた。
郡司はそれを受け取って封筒に入れた。
「日にちは」
「一月三十一日でいかがですか」
「かまいません」
「午後二時に、正門でお待ちしています」
彼は立ち上がった。
立ち上がって鞄を提げた。
そして、ドアの前で振り返った。
「高梨さん」
「はい」
「ひとつだけ、申し上げてよろしいですか」
僕は頷いた。
郡司は少し言葉を探した。
この人が言葉を探すのを、僕は初めて見た。
「私は二つある事実を憎んでいます」
「聞きました」
「ですが」
彼は左手を、鞄の持ち手から離した。
「あなたが、そちら側へ行かれるのは憎んでいません」
※
部屋を出て四谷の坂を降りた。
この前は雨だった。この日は晴れていた。
坂の途中で僕は振り返った。
看板の出ていないビルの四階に、ブラインドの下りた窓がひとつあった。
その向こうに、あの人がいる。
三十秒で十九人が死ぬのを見た人が、いる。
僕は頭を下げた。
見えていないことは、知っていた。
それでも、下げた。




