第54話 六通の手紙を書いた
一月の残りを、僕は手紙を書いて過ごした。
メールにしなかったのは紙のほうが残るからだ。三年間、僕はずっと、紙が残ることを恐れてきた。最後にそれを使うことにした。
六通、書いた。
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岸田さんには、いちばん短く書いた。
——三年間、ありがとうございました。ゲラは机の上に揃えてあります。二百三ページの「昭和四十二年」は、著者に確認をお願いします。
この人は追及しない人だ。だから、追及しなくていいように書いた。
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七尾さんには、いちばん迷った。
三度書き直して四度目にこう書いた。
——先日は余計なものをお見せしました。あなたが泣かれた三年は、あなたのものです。誰にも渡さないでください。
最後に、一行足した。
——うどん屋で二人分頼むのは続けてください。
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ケイには、鉛筆で書いた。
——見えるものが見えるのは悪いことじゃない。ただ、言うと紙になる。君はもう、それを知っている。知っていて黙るのは我慢とは言わない。決めるという。
封筒に、切手を貼りながら、この子は漢字が読めるだろうかと考えた。
考えてふりがなを振った。
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矢口には、詫びだけ書いた。巻き込んだ詫びだ。
宗像には、修論のことを書いた。
——先生。あの壁の計算に、間違いはありませんでした。間違えたのは窓をつけたことに、反対意見書一枚しか出さなかったことです。
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いちばん最後に、望月佐和子に書いた。
三日かかった。
書けなかったのは、書いてはいけないことが、いくつもあったからだ。
あの子は生きています。とは書けない。
位牌を下ろしてください。とも書けない。
結局、こうなった。
——望月さん。先日はあの子の部屋を見せていただき、ありがとうございました。机の文庫本に挟まっていたレシートですが、あのきつねうどんは、僕が一緒に食べました。二つのうち、片方は僕のものです。三年間、お伝えできずにいました。
——あの日、あの子は一人ではありませんでした。
封をして切手を貼った。
貼ってから、僕はしばらく、その封筒を持っていた。
これは嘘ではない。
嘘ではないことだけを、僕はこの人に渡す。
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部屋の片づけは二日でついた。
もともと、物が少ない。ゲラを返して、本を古書店に出して布団を処分した。
大家さんに、退去の連絡をした。おばあさんはそうかい、とだけ言った。
「どこ行くの」
「遠くです」
「そう」
彼女はそれ以上訊かなかった。
三つ訊いて、四つ目は訊かない。
この街の人はみんなそうなのかもしれない。
※
鍋は置いていくことにした。
六畳の真ん中に、鍋がひとつ。茶碗がふたつ。
それだけを残してあとは空にした。
「持ってかないの」
榛名が訊いた。
「向こうにも、あるかもしれない」
「ないよ」
「ないかもな」
僕は鍋の蓋を開けて閉めた。
「でも、置いていく」
「なんで」
僕は少し考えた。
「誰かが、この部屋に入ったときに」
僕は言った。
「茶碗が二つあるのを、見てほしい」
※
榛名は鍋の前にしゃがんだ。
しゃがんで蓋に手を伸ばした。
届かなかった。指が蓋を通り抜けた。
彼女はその手をしばらく見ていた。
「透」
「うん」
「わたし、まだ怒ってるからね」
「知ってる」
「ずっと怒ってるからね」
「うん」
彼女は立ち上がった。
立ち上がるのに、二分かかった。
「でも」
榛名は言った。
「一緒に行く」




