第53話 見ないことも、観測だ
僕は卓袱台の上に、修論の草稿を広げた。
榛名はその向かいに座った。座るのに、一分近くかかった。
「聞いてくれ」
「聞くよ」
「たぶん、君は怒る」
「怒るかもね」
彼女は輪郭を止めたまま、そう言った。
※
「僕は三年間、複製の数を変えようとしてきた」
僕は紙の上に指を置いた。
「君の側を増やすか、向こう側を減らすか。その二つしかないと思ってた」
「うん」
「でも、複製っていうのは、届いて初めて意味がある」
僕は指を動かした。
「新聞が二百万部刷られても、読む人がいなければ、その人にとっては存在しない。役所の書類が何千枚あっても、届かないところには届かない」
榛名は僕の指先を見ていた。
「世界は、もう決めてる。君は死んだって何百枚もの紙が言ってる。それは覆せない」
「うん」
「でも、その紙が、僕に届かなければ」
僕は顔を上げた。
「僕にとってそれはまだ決まってない」
※
榛名はしばらく黙っていた。
黙って僕の顔を見ていた。
「透」
「うん」
「それ、どこに行けばそうなるの」
僕は修論の最初のページを、彼女のほうへ向けた。
題目が印字されていた。
——多層構造による外部相関の長時間遮断——十時間級デコヒーレンス遮蔽の設計と評価
彼女の目がその一行を、ゆっくり左から右へ動いた。
動いて、止まった。
「……あの部屋?」
「あの部屋だ」
※
「だめ」
即答だった。
「だめ。ぜったいだめ」
「榛名」
「なんで!」
彼女は立ち上がろうとした。立ち上がれなかった。膝が畳から離れなかった。
「あそこ、わたしが死んだところだよ!」
「知ってる」
「知ってて行くの!?」
「行く」
「なんで!」
僕は彼女の顔を見た。
三年前から、僕はこの人の目を、まっすぐ見たことがほとんどなかった。
この日は見た。
「あそこだけが、多数決の外だからだ」
※
「あの壁は、僕が計算した」
僕は言った。
「振動を切って、熱を切って電磁場を切る。中と外が情報をやりとりしない。だから、中で何が起きても、外には漏れない」
「逆も?」
「逆もだ」
僕は頷いた。
「外で何が決まっても、中には届かない」
榛名は両手を畳についた。
「保証値は十時間だ。でも、あれは中の計測系を動かしたままの数字だ。中で何も動かさなければ、もっともつ」
「もつってどのくらい」
「わからない」
僕は正直に言った。
「壁は、放っておけばもつ。もたないのは人だ」
※
「透」
榛名の声が震えていた。
「それ、あなたが死ぬってことだよ」
僕は目を逸らさなかった。
「世界にとっては、そうだ」
「世界にとってはって」
「僕は行方不明になる。しばらくして死亡が推定される。何年かかけて書類が揃う。僕の死は複製されていく」
「じゃあ」
「でも、それは外の話だ」
僕は紙の上に手を置いた。
「中にいる僕には、その紙が届かない」
※
「中で、僕が生きてるかどうかも、決まらない」
僕は言った。
「腹が減るかどうかも、いつまでもつかも、決まらない。決まるのは誰かが開けたときだ」
榛名は両手で顔を覆った。
覆った手が少し透けていた。
「なにそれ」
彼女は言った。
「なにそれ。それ、生きてるって言わないよ」
「言わない」
僕は頷いた。
「外からは、言わない」
※
僕は卓袱台の上で両手を組んだ。
「榛名。ひとつだけ、はっきりしてることがある」
彼女は顔を覆ったままだった。
「僕は自分の観測を取り消せない。四年間、君と暮らした。それは僕の中では、動かない」
僕は言った。
「取り消せないけど、これ以上、観測しないことは、選べる」
彼女の指が少し開いた。
「世界が何を決めたか、僕は見ない。見なければ、僕は受け取らない」
※
「見ないことも、観測だ」
僕は言った。
「三年間、僕は、目を逸らす癖を、いちばん恥ずかしいことだと思ってた」
榛名が手を下ろした。
目が赤かった。
「だけど、これは逸らすんじゃない」
僕は彼女を見ていた。
「これは決めることだ」
※
部屋のなかは静かだった。
台所の蛇口から、水が一滴落ちた。
「透」
「うん」
「わたし、いま、なんて言えばいいんだろう」
「なんでもいい」
「やめてって言ったら、やめる?」
僕は首を横に振った。
「やめない」
榛名は笑った。
泣きながら、笑った。
三年ぶりに、彼女の目から、水が落ちた。
落ちて畳に染みを作った。
染みは消えなかった。
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