第52話 目を細くして、もう一度読む
榛名は翌朝に戻ってきた。
台所の入口に立っていた。輪郭は止まったままだった。
「おはよ」
「おかえり」
「どっか行ってた?」
「どこも」
僕は嘘をつかなかった。
小平へ行った。階段の一段目に足をかけた。上がらなかった。
それは行ったとは言わない。
※
その日、僕は、一日じゅう卓袱台の前に座っていた。
紙は押し入れに戻していた。ノートも入れたままだった。
何もない卓袱台の上を、ずっと見ていた。
三年前の二年間、僕はこうやって座っていたのだと、榛名は言った。電気もつけずに、二時間とか三時間とか。
いま、それをやっている。
※
夕方になって、僕は、自分が何をしているのかに気づいた。
一回目の読みをやっている。
意味を追う読み方だ。
どうすれば助かるか。何をすれば勝てるか。誰に頼めばいいか。三年間、僕はそれしかやっていない。
だがこの仕事には、二回目がある。
二回目は意味を追わない。
文字だけを見る。
文章を読まないようにして文字を読む。
岸田さんはそれを「目を細くする」と言う。細くすると、意味がぼやけて形だけが残る。
僕は目を閉じた。
閉じて、頭のなかのページを、頭から、もう一度めくった。
※
一。事実は観測されるまで決まらない。
二。見ただけでは足りない。記録され、照合され、複製されて初めて客観的な事実になる。
三。複製の多い事実が勝つ。
四。一度決まった事実は、覆せない。ただし、まだ照合されていない事実は、両方とも生きている。
五。外と情報をやりとりしない場所の内側では、事実は決まらない。
六。人は自分の観測を取り消せない。
※
僕は三のところで、いつも止まっていた。
三年、そこで止まっていた。
複製の多いほうが勝つ。だから、多いほうを減らす。減らせないから、負ける。
意味を追うと、そう読める。
だが文字だけを見ると、三には、こう書いてある。
——複製の多い事実が勝つ。
勝つ、とは書いてある。
誰に対して勝つのかは、書いていない。
※
僕は目を開けた。
卓袱台の上を見た。何もなかった。
複製は誰かに届いて、初めて意味を持つ。
新聞が二百万部刷られても、無人島には届かない。
届かないところには、多数派は存在しない。
僕は立ち上がった。
立ち上がって押し入れを開けた。
三年前の修論の草稿を、引っぱり出した。
最後のページを開いた。
定規を当てて引いた線の上に、三年前の僕の字があった。
——窓がある以上、外の観測者は「見てしまう」。
——ゆえに、開扉判断は、見た者以外が行うこと。
その、二行上。
——内部に人を置く場合、外部観測者は事後に開扉しないこと。
——開けた時点で決まる。
※
僕はそのページを、両手で持った。
開けた時点で決まる。
逆から読む。
開けなければ、決まらない。
誰にとって。
外の観測者にとってではない。
外の観測者はもう決めている。三年前に決めた。何百枚もの紙がそれを複製している。
決まっていないのは内側だけだ。
内側にいる者にとってだけ、それはまだ決まっていない。
※
僕は紙を置いた。
置いた手が震えていた。
三年間、僕は、世界が榛名を殺すことを止めようとしてきた。
止められなかった。止められるはずがない。世界はもう決めている。
だが僕がやるべきだったのはそこではなかった。
世界が決めることは、止められない。
止められるのはその決定が、僕に届くことだ。
届かなければ、僕にとってそれは決まっていない。
僕にとって決まっていなければ、彼女は、僕にとって生きている。
※
「透?」
榛名がこちらを見ていた。
「どうしたの。顔、変だよ」
僕は両手を膝についた。
ついて、しばらく、そのまま動かなかった。
「間違えてた」
「なにを」
「戦う相手を」
僕は顔を上げた。
「僕は世界と戦おうとしてた」
彼女は首をかしげた。
「違うの?」
「違う」
僕は言った。
「世界は、勝手に決めればいい」
※
「僕が、受け取らなければいい」




