第51話 階段の一段目で、足を止めた
詩織が帰ったあと、僕はその紙を、何度も読んだ。
——第五章 観測されなかった側について
題目だけだった。中身は無い。
彼女はそれについて何も説明しなかった。ただ置いて、湯を半分だけ飲んで帰った。
僕はその一行を、卓袱台の上に置いたまま、暗くなるまで見ていた。
※
その夜、榛名が消えた。
六時十二分に消えた。
僕は時計を見てノートに書いた。
七時になっても、戻らなかった。
八時になっても、戻らなかった。
僕は部屋を出なかった。
九時。十時。十一時。
※
零時を過ぎたころ、僕は、押し入れを開けた。
紙を出した。
六畳に、また敷き詰めた。
新聞。報告書の写し。診断書の様式。保険の約款。機構の組織図。市の窓口の一覧。
全部、もう一度読んだ。
三度目だ。四度目かもしれない。
どこにも、抜け道は無かった。
根は一本で、その一本は、たったいま、断られた。
※
午前二時。
僕は上着を着て外に出た。
自分がどこへ行こうとしているのか、玄関を出た時点では、考えないようにしていた。
中野から、小平まで。
電車はもう無かったので、歩いた。
三時間かかった。
※
五時十分に、着いた。
都営住宅の、四階建て。右から三つ目の窓。
真っ暗だった。
自転車置き場の屋根の下に、僕は立った。
榛名が座っていた場所だ。
僕はそこに座らなかった。座る資格がない気がした。
※
六時四十分に、カーテンが開いた。
窓の向こうに、望月佐和子が見えた。
彼女は窓を開けた。
朝の空気を入れて、それから、両手で背中を伸ばした。
僕はそれを見ていた。
四階まで階段で三分だ。
行って、ドアを叩いて、こう言えばいい。
——望月さん。あの子は生きています。僕には見えています。あなたが位牌を下ろして、カレンダーをめくって、命日に花を買うのをやめれば、あの子は戻ってきます。
言えば、たぶん、この人は信じる。
三年間、この人はあの子のことだけを考えてきた。信じる力は僕の百倍ある。
その百倍がこちらに来る。
※
僕は階段の下まで歩いた。
一段目に、足をかけた。
かけて止まった。
止まったのは約束したからではない。
もっと、簡単な理由だった。
この人は三年かけて慣れた。
息ができなくなって、救急車を呼んで、朝に帰されて、それでも、毎週窓を開けるところまで来た。
僕がいまから上がっていって言うのは、その三年を、全部無かったことにしてくださいということだ。
そして、うまくいかなかったら。
この人はもう一度、あの子を死なせる。
二度目の三年を、この人はもう持っていない。
※
僕は足を下ろした。
階段から離れて、自転車置き場のほうへ戻った。
四階の窓が閉まった。
カーテンが引かれた。
僕はそこで五分ほど立っていた。
立っていて、何も起きなかった。
※
部屋に帰ったのは十時過ぎだった。
襖を開けた。
誰もいなかった。
押し入れの前も、卓袱台の前も、台所も、ベランダも、誰もいなかった。
僕は上着を着たまま、卓袱台の前に座った。
座って時計を見た。
六時十二分に消えて十時十七分。
十六時間五分。
※
僕はノートに書こうとした。
鉛筆を持った。
持って書けなかった。
書く欄が足りなかったからではない。
書けば、記録になるからだ。
記録は複製される。
複製されれば、多数派に近づく。
僕は三年間、この部屋で起きたことを、全部書いてきた。
書いたものが彼女を薄くしていたのかもしれない。
僕は鉛筆を置いた。
置いて、ノートを閉じた。
閉じて、それを、押し入れの奥に押し込んだ。
部屋のなかには、もう、何も残っていなかった。




