第50話 嘘の上に立つのを、生きてると呼ぶのか
僕はすぐには何も言えなかった。
言えないまま、湯呑みの湯気を見ていた。
断られるだろうとは思っていた。思っていたのに、体のほうが受け取っていなかった。
「理由を、三つ申し上げます」
詩織は言った。
「三つとも、あなたを納得させるためのものではありません。私が自分で確かめたことです」
※
「一つ目」
彼女は指を一本立てた。
「私が嘘をつけば、望月さんは、嘘の上にしか立てなくなります」
僕は顔を上げた。
「あなたのおっしゃる理屈は、正しいと思います。根が揺れれば、枝は揺れる。私の記録が曖昧になれば、あの方はいまより濃くなるでしょう」
「なら」
「濃くなったあの方は何の上に立っていますか」
詩織は僕を見ていた。
「私が、見たものを見なかったと言った、その一言の上です」
僕は口を閉じた。
「それを、あなたは、生きていると呼びたいのですか」
※
「二つ目」
二本目の指が立った。
「望月佐和子さんは、私の記録を読んでいます」
僕の背中が少し固くなった。
「事故から二か月後に、機構でお会いしました。あの方はあの子が最後にどうしていたのかを知りたいとおっしゃいました。私は記録をそのまま読み上げました。時刻も、私が何をしたかも、全部です」
彼女の指が膝の上で少しだけ動いた。
「あの方は最後まで聞いて、それから、ありがとうございましたとおっしゃいました」
「……」
「私が、確認していないと言えば、あの方が三年前に受け取ったものは根拠を失います」
詩織は言った。
「私はあの方から、あの子の最期を取り上げることになります」
※
僕は押し入れの前を見た。
榛名はそこにいた。
こちらを見ていた。
目が合った。
彼女は何も言わなかった。何も言わずに、少しだけ頷いた。
その頷きが何を意味するのか、僕には分かった。
——それはだめだよ。
※
「三つ目」
詩織は三本目の指を立てた。
立ててから、初めて少し目を伏せた。
「これは私事です」
「聞きます」
「私はあの日、規程より四分遅らせました」
彼女の声がわずかに低くなった。
「五分以内に開扉することになっていました。私は九分待ちました。廊下で、あなたが、開けないでくださいと言っていたからです」
僕はその光景を知らない。
「四分です。四分で助かったかどうかは、誰にも分かりません。分からないから、私は三年、それを書けずにいます」
彼女は膝の上の手を握った。
「でも、私は、四分待った人間です」
※
「私が、確認していないと言った瞬間に」
詩織は言った。
「私は四分待った人間ではなくなります」
僕は息を止めていた。
「何も見ていない人間になります。何も判断していない人間になります。あの日、あの部屋の前で、何もしなかった人間になります」
彼女は顔を上げた。
目が赤かった。
それでも、涙は出ていなかった。
「高梨さん。私が三年間、あの子と繋がっているのはその四分だけです」
※
僕は何も返せなかった。
三年かけて組み立てた理屈が、たった三つの理由で全部崩れた。
崩れたのではない。
最初から、そこには立っていなかった。
僕は彼女に「まっすぐでなくなれ」と頼んだ。
それはこの人から、あの四分を取り上げることだった。
僕はそれを計算に入れていなかった。
入れていなかったのではない。
入れないようにしていた。
三年間、僕がやってきたのはずっとそれだ。見たら困るものから、目を逸らす。
※
「すみませんでした」
僕は頭を下げた。
畳に、額がつきそうなくらい下げた。
「顔を上げてください」
「上げられません」
「上げてください」
詩織の声が少しだけ強くなった。
僕は顔を上げた。
彼女はまっすぐ座っていた。
「高梨さん。私は断りに来たのではありません」
僕はまばたきをした。
「断るだけなら、電話で足ります」
彼女は鞄の口を開けた。
「三年、書けなかった章の題目が、決まりました」
そう言って彼女は一枚の紙を出した。
僕のほうへ、静かに滑らせた。
紙の上には、鉛筆で一行だけ書いてあった。
——第五章 観測されなかった側について




