第49話 見えない人に、彼女は頭を下げた
沢渡詩織が中野に来たのは一月十四日だった。
電話は前の晩にあった。伺いますとだけ言われた。断る理由がなかった。
僕は朝から部屋を片づけた。畳の上に敷き詰めていた紙を、全部集めて押し入れに入れた。それだけで一時間かかった。
卓袱台を拭いた。湯呑みを二つ、洗った。
洗ってから一つを流しに戻した。
戻して、少し考えてまた出した。
※
彼女は二時ちょうどに来た。
コートを着ていた。三年前の共同研究のときに着ていたのと、同じ色だった。
「散らかっていて、すみません」
僕がそう言うと、詩織は少しだけ口の端を動かした。
「私が言う台詞です」
彼女は靴を揃えて上がって卓袱台の前に座った。座布団を勧めると、使った。
部屋を、見た。
六畳。四畳半。台所。鍋がひとつ。茶碗がふたつ。
彼女の視線が二つ目の茶碗のところで止まった。
※
「高梨さん」
「はい」
「いま、そこにいらっしゃいますか」
僕は部屋の隅を見た。
榛名はそこにいた。膝を抱えて、輪郭を止めたまま、詩織を見ていた。
この日は朝から一度も消えていなかった。
「います」
「どちらに」
「そこの、押し入れの前です」
詩織はそちらを向いた。
何も見えていないはずだった。
彼女はしばらく、そこを見ていた。
それから、両手を膝の上で揃えて頭を下げた。
※
深い礼だった。
葬儀でするような、あるいは、詫びるときにするような、そういう角度だった。
三秒、下げていた。
顔を上げてから彼女は言った。
「望月さん。沢渡です」
榛名が口を開けた。
開けて何も言わなかった。
「三年前、私が開けました」
詩織の声はまっすぐだった。
「申し訳ありませんでした」
※
部屋のなかが静かだった。
隣の人が帰ってきた音がした。鍵を回して、ドアを開けて閉める。三つの音。
榛名は動かなかった。
動かないまま、少しして言った。
「透」
「うん」
「なんて言えばいいの」
僕は詩織のほうを見た。
「聞こえていません」
「わかってる」
榛名は膝を抱えなおした。
「でも、なんて言えばいいの」
僕は答えられなかった。
彼女はしばらく黙って、それから、小さい声で言った。
「頭、下げないでほしい」
※
僕はそれを伝えなかった。
伝えれば、詩織はきっと、もう一度下げる。この人はそういう人だ。
僕は茶を淹れた。
湯呑みを二つ、卓袱台に置いた。
詩織はそれを見て何も言わなかった。
※
「お返事をしに来ました」
彼女は言った。
僕は湯呑みから手を離した。
「はい」
「六日、考えました。一日も、他のことを考えませんでした」
彼女は姿勢を崩さなかった。
「毎朝、あなたの言った言葉を、紙に書きました。——私は確認していない——と」
僕は膝の上で指を組んだ。
「六日、書きました」
「書けましたか」
「書けます」
詩織は言った。
「手は、動きます」
※
彼女はそこで一度、言葉を切った。
切ってから僕の目を見た。
この人はいつも人の目を見て話す。三年前からそうだった。
「高梨さん」
「はい」
「お断りします」




