第48話 嘘をついてください
一月八日、僕は川崎へ行った。
その日は雪が降りそうな空だった。降らなかった。降りそうな空のまま、一日じゅう暗かった。
沢渡詩織はいつもと同じように、僕を通した。
いつもと同じように、湯呑みを二つ置いた。
いつもと同じように、原稿の五章は、題目が空白のままだった。
※
「今日は、答えを持ってきました」
僕が座るなり、そう言うと、彼女は少しだけ姿勢を正した。
「前回のご質問です。僕があなたに何をさせたいのか」
「はい」
僕は鞄からノートを出した。
三度目の棚卸しの表を開いて、机の上に置いた。
彼女はそれを見た。
上から下までゆっくり見た。研究者の目の動かし方だった。数字のあるところで止まり、無いところは飛ばす。
いちばん下の行で目が止まった。
——外部観測者記録(沢渡詩織) 一件 トル
※
「トル、というのは」
「校正の記号です」
僕は言った。
「無かったことにしてください、という意味です」
詩織はしばらく黙っていた。
「私の記録を、取り消せと」
「取り消してほしいわけではありません」
僕は首を振った。
「取り消しても、たぶん、意味がありません。取り消したという記録が新しく増えるだけです。郡司さんのやり方が、それです」
「では」
僕は両手を膝の上に置いた。
三年ぶんの息を一度に吸った。
「沢渡さん」
「はい」
「嘘をついてください」
※
詩織はまばたきをしなかった。
「あなたは、一四時四一分に、観測窓から中を見ました」
「見ました」
「そのあと、扉を開けて脈を取りました」
「取りました」
「その一連について、こう言ってください。——私は確認していない」
僕は机の上のノートを、指で押さえた。
「見たかもしれないし、見ていないかもしれない。三年経って記憶が曖昧になった。あの日、私が確かに確認したと言い切ることはできない」
部屋のなかは静かだった。
外で風が鳴っていた。
「そう言ってくださるだけでいいんです」
僕は続けた。
「否定しなくていい。取り消さなくていい。ただ、確かではない、と言ってください」
※
「なぜ、それでいいと思うんですか」
詩織が訊いた。
声はいつもと同じ調子だった。
「この三年間で、いちばんまっとうな質問です」
「答えてください」
「根だからです」
僕は床に並べた紙のことを話した。
新聞も、報告書も、診断書も、保険も、全部が一枚を引用している。その一枚が「確かではない」になれば、枝は全部、引用元を失う。
消えはしない。
だが揺れる。
「揺れれば、複製としての強さが落ちます。落ちれば、比が変わります」
僕は言った。
「あなたが一言そう言えば、何百枚が、同時に弱くなります」
※
詩織は机の上で両手を組んだ。
組んだまま、長いこと、そこを見ていた。
「高梨さん」
「はい」
「あなたは、私に、私が見たものを、見なかったことにしろと言っている」
「はい」
「それは、私に、私をやめろと言っているのと同じです」
僕は目を逸らさなかった。
「わかっています」
「わかっていて、おっしゃっている」
「わかっていて、言っています」
彼女は初めて目を伏せた。
伏せて、机の上の、書きかけの原稿を見た。
五章。題目、空白。
「三年、書けなかった章があります」
詩織は言った。
「その章に何を書くかは、たぶん、いま決まりました」
僕は身を乗り出した。
「では」
「ただ」
彼女は遮った。
遮って顔を上げた。
「今日は、返事をしません」
※
僕は外へ出た。
空はまだ雪を降らせなかった。
団地の階段を降りて駐車場を横切った。ブロック塀に、前に榛名が手をついた跡は、もう無かった。
携帯を出して時刻を見た。
十六時二十四分。
部屋を出てから四時間半が経っていた。
その間、彼女がどれだけ消えていたのかを、僕は知らない。
知りようがなかった。
僕は駅へ向かって歩き出した。
歩きながら、たったいま、自分が人に何を頼んだのかを、はっきりと言葉にした。
僕はまっすぐな人に、まっすぐでなくなれと言った。
それが僕の三年間の、結論だった。




