第5話 見られると、なかったことになる
その日から、僕は実験をはじめた。
実験、という言い方を自分に許すのに三日かかった。許してしまえば、あとは早かった。三年前まで、僕はそれを仕事にしていた人間だ。
仮説は単純だった。
——榛名がしたことは、他人に見られると、していないことになる。
※
一つ目。洗濯物。
榛名は畳むのが好きだ。僕がベランダから取り込んで山にして放っておくと、いつのまにか畳んで積んである。角がきちんと合っている。僕が畳むと合わない。
僕は畳まれたタオルの山を撮った。写真には、畳まれたタオルが写った。
次に、大家さんを呼んだ。給湯器の音がおかしいと言って部屋に上がってもらった。大家さんは七十過ぎのおばあさんで、部屋の中をひととおり見る癖がある。
彼女が帰ったあと、タオルは山になっていた。
畳まれていない。ベランダから取り込んだままの形で無造作に積まれている。
僕はさっき撮った写真を開いた。
写真の中のタオルも、山になっていた。
※
二つ目。風呂場の鏡。
湯を張って、曇った鏡に、榛名に字を書いてもらった。
「なんて書けばいいの」
「なんでも」
彼女は指で「はるな」と書いた。ひらがなで最後の「な」の跳ねが大きい。彼女の字だ。
僕はそれを撮った。画面のなかに、確かに「はるな」と写った。
それから、その写真を岸田さんに送った。件名なし、本文なし。
三分後に返信が来た。
——なんだこれ
——曇った鏡
——字はどこ
僕は自分の画面を見た。
鏡は曇ったままだった。
白いだけの、何も書かれていない鏡だった。
※
三つ目。
これはやるかどうか迷った。
榛名に、僕の腕をつねってもらった。
「なんで」
「痕が残るか見たい」
「ひどいこと言うね」
彼女は少しだけ笑って僕の左の前腕をつまんだ。爪を立てずに、皮膚だけを挟む。痛かった。
三十秒後、赤い痕が残った。
僕はそれを見た。楕円形の、境界のはっきりした赤。榛名の指の幅だ。
僕はコンビニに行った。レジで金を払うとき、袖をまくった。
店員は前回と同じ若い男だった。彼は僕の腕を見なかった。だから僕はわざと財布を落として彼にしゃがませた。彼の顔が僕の左腕の高さに来た。
彼が顔を上げる。
僕は自分の腕を見た。
何もなかった。
※
部屋に戻って僕はノートに書いた。
——榛名の作用は、第三者の観測により消失する。
——消失は記録媒体(写真)にも遡って及ぶ。
——ただし、僕の記憶には残る。
三行目のところで鉛筆が止まった。
残る、と書いた。
だがそれは本当か。僕の記憶が残っているというのは、僕がそう思っているというだけのことだ。書き換わっていたら、書き換わったことは分からない。
僕は四行目を書いた。
——僕の記憶は証拠にならない。
榛名が部屋に入ってきた。手にタオルを持っている。畳もうとして、僕のノートを見て手を止めた。
彼女はしばらくそれを読んでいた。読んで、それからタオルを畳みはじめた。
「透」
「うん」
「そういうの、やめない?」
彼女の声は怒っていなかった。
怒っていないから、余計に悪かった。
「わたしがやったことが消えるのは、べつに、いいの。もう慣れた」
タオルの角が合う。ぴたりと合う。
「消えるのを、あなたが確認するのはいや」
僕は鉛筆を置いた。
置いてから彼女の手元を見た。顔は見なかった。
「ごめん」
「うん」
畳まれたタオルが、四枚積まれた。
誰にも見られなければ、それはまだそこにある。




