第4話 レシート三十七枚が、全部二人分だった
ゲラを届けに、神保町まで出た。
株式会社文字座は、裏通りの雑居ビルの三階にある。エレベーターがないので階段で上がる。踊り場に段ボールが積んであって、いつも半歩ずれて通らないといけない。三年前からずっとこの段ボールはここにある。
「早いな」
岸田さんが顔を上げた。校正部は五人しかいない。全員が机に鉛筆立てを置いていて、全員が違う削り方をしている。
「昭和四十二年と四十三年で揺れてました。あと、獅子頭の寸法が三箇所」
「何センチ違う」
「二寸」
「著者に投げる」
それで話は終わった。この人との仕事は、いつもこれで終わる。
帰り際、岸田さんが立ち上がって、僕を階段のところまで送ってきた。送るような距離ではない。
「高梨」
「はい」
「体調、悪いとかじゃないよな」
僕は段ボールの角を見た。
「悪くないです」
「そうか」
岸田さんはそれ以上言わなかった。この人は追及しない。
ただ、追及しない人が確認をしにくるというのは、たぶん、もう追及の一歩手前まで来ているということだ。
※
昼を食べようと思って財布を出した。
小銭入れのファスナーが硬くて、いつも中身がつかえる。中を空にしようと思って逆さにして机の上に振った。小銭と、折れたレシートの束が落ちた。
僕はレシートを捨てる癖がない。捨てないというより、捨てるという工程を忘れる。だから財布の中には、半年分くらいのレシートが常に入っている。
一枚目。近所のスーパー。豚バラ二百グラム。白菜二分の一。うどん二玉。
二玉。
僕はうどんを一度に二玉食べない。一玉で足りる。
二枚目。コンビニ。肉まん二個。
三枚目。定食屋。とんかつ定食、大盛。ライスおかわり一回。
僕はライスをおかわりしない。
四枚目、五枚目、六枚目。
全部が二人分だった。
僕は机の上にそれを並べていった。日付順にする。ひと月分並べて、それでも足りなくて、鞄の内ポケットからも出した。三十七枚。
三十七枚全部が二人分の買い物をしていた。
僕は椅子の背にもたれて天井を見た。
当たり前だ、と思った。榛名がいるのだから、二人分に決まっている。
当たり前だと思ったあとで背中が冷たくなった。
当たり前のことは、レシートには残らない。残っているということは、レジの向こう側の人間が、二人分の金額を打ったということだ。
誰にも見えないはずの一人分を、店は、毎回、勘定に入れている。
※
いちばん下に、変色した一枚があった。
感熱紙は三年もすると文字が飛ぶ。上半分はもう白い。かろうじて読めるのは下三行だけだった。
——国立情報基礎研究機構 厚生棟食堂
——10/17 12:04
——きつねうどん ×2
僕はその紙を持ったまま動けなかった。
相模原の山のなかにある研究機関だ。名前は知っている。知っているどころではない。僕が院生のとき、共同研究で二年通った場所だ。
だが三年前の十月十七日、僕はそこにいない。
その日、僕は大学の研究室にいた。朝から夜まで、宗像教授の論文の図を作っていた。覚えている。窓の外で銀杏が黄色くなりはじめていて、コーヒーを三杯飲んで、夕方に頭痛がして早めに帰った。
覚えている。はっきりと覚えている。
僕はその日の記憶を、一分刻みで持っている。
持っているのに、手のなかの紙は、僕がその日、山のなかの食堂で、きつねうどんを二杯買ったと言っている。
「透」
台所から声がした。
「お昼、どうする」
僕はレシートを裏返して机の隅に置いた。
置いてからその上にゲラの束を載せた。
「食べる」
「なに」
「なんでもいい」
僕は椅子から立たなかった。
立てば、彼女の顔を見ることになる。
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