第45話 ぼく、これから、言わないでおく
ケイが来たのは三日後だった。
母親と一緒だった。彼女は玄関で頭を下げて、それから、ケイの背中を軽く押した。
「あの、この子がどうしてもって」
僕は二人を上げた。
部屋は片づいていなかった。ゲラが床に落ちたままだった。三日、そのままにしてあった。
ケイは靴を脱いで、部屋に入ってすぐに部屋の隅を見た。
そこに、榛名がいた。
※
ケイはそこから動かなかった。
立ったまま、三十秒くらい、じっと見ていた。
それから、言った。
「一個になりかけてる」
僕は卓袱台の前に座って頷いた。
「うん」
「死んでるほうが、濃い」
「うん」
「生きてるほうが、薄い」
彼はそこで目をこすった。
こすったのはよく見ようとしたからではなかった。
「ぼくのせい?」
※
母親が後ろで息を呑んだのが分かった。
彼女には、何も見えていない。何の話をしているのかも、たぶん分かっていない。それでも、息を呑んだ。
子どもの声というのは、そういう出方をすることがある。
「違う」
僕は言った。
「ケイくんのせいじゃない」
「でも、ぼくが言ったから」
「君は、本当のことを言った」
「本当のこと言ったら、お姉さん、薄くなった」
ケイは拳を握っていた。
「じゃあ、本当のこと、言っちゃだめってこと?」
※
僕はその質問に、正しく答える義務があった。
この子は去年、体育館の裏で担任を見つけた。そのあと、二人の先生が見えると言って、みんなに見られて学校に行けなくなった。
この子に、嘘をつけと言うことはできない。
「ケイくん」
「うん」
「君が見たものは正しい」
僕は床のゲラを拾って卓袱台に置いた。
「言ったことも、間違っていない。誰も、君を責めない」
「じゃあ、なんで」
「言うと、紙になるからだ」
ケイは僕を見た。
「紙?」
「君が言ったことは、大人が紙に書く。書いた紙はコピーされる。今回は二百十一部コピーされた」
僕は指で卓袱台に、四角を描いた。
「その紙には、君の言ったことが全部書いてある。でも、そのすぐ上に、こう書いてあるんだ。——望月榛名は三年前に死亡した——って」
ケイの口が少し開いた。
「ぼくの言ったことと、逆のことが」
「同じ紙に、一緒に書いてある」
※
ケイはしばらく黙っていた。
子どもが黙るときの、あの、体ごと止まる止まり方だった。
「じゃあ」
やがて彼は言った。
「ぼくが、もう一回言えばいい? もっと大きい声で」
「だめだ」
「なんで」
「もう一回言うと、もう一枚、紙ができる」
僕は四角をもう一つ、隣に描いた。
「その紙にも、上のほうに同じことが書いてある」
ケイはその二つの四角を見ていた。
見て、指で片方をなぞった。
「……ずるいね」
「ずるい」
「大人、ずるい」
「ずるいな」
僕は頷いた。
頷きながら、自分もそのずるい大人の一人であることを、この子に言うべきかどうか、迷った。
言わないことにした。
言えば、この子は僕のことも紙にするかもしれない。
※
帰り際、玄関でケイが靴を履いた。
履きながら、下を向いたまま言った。
「おじさん」
「なんだ」
「ぼく、これから、言わないでおく」
僕は動けなかった。
「見えても、言わない。誰にも」
彼は靴の踵をとんとんと鳴らした。
「そしたら、紙にならないでしょ」
※
僕はその場にしゃがんだ。
しゃがんでこの子と同じ高さになった。
十二歳がたったいま、自分で見つけたことだ。
三年かけて僕がたどり着けなかった場所に、この子は五分で来た。
「ケイくん」
「なに」
「ありがとう」
ケイは少しだけ笑った。
笑って、それから、部屋の隅のほうを見た。
「お姉さん」
榛名が顔を上げた。
「またね」
彼女は口を動かした。
声はケイには届かない。届かないことはたぶん、彼女も分かっていた。
それでも、彼女は言った。
「またね」




