第44話 その紙は、二百十一部配られた
十二月十五日。
その日のことは時刻まで覚えている。
午前十一時四十分、僕は卓袱台でゲラを読んでいた。仕事は月に一本まで減っていた。岸田さんは何も言わずに、それでも切らずに回してくれていた。
榛名は部屋の隅で膝を抱えていた。
最近はそこにいることが多い。
※
十一時四十二分。
彼女が小さく息を吐いた。
「あ」
僕は顔を上げた。
「どうした」
「なんか」
榛名は自分の腕を見ていた。
「なんか、来た」
※
僕が見ている前で、彼女の輪郭が、変わった。
薄くなったのではない。
はっきりしたのでもない。
固まった、というのが、いちばん近い。
それまで、彼女の輪郭は、いつも少しだけ揺れていた。息をするたびに、肩の線が動いていた。髪の先が空気の流れで揺れていた。
それが止まった。
写真のように止まった。
「榛名」
僕は立ち上がった。
立ち上がった拍子に、卓袱台にぶつかってゲラが床に落ちた。
「榛名」
「うん」
声は出た。
出たが遠かった。
部屋の壁の向こうから聞こえるような声だった。
※
携帯が鳴った。
僕は画面を見た。郡司だった。
出るべきではなかった。出た。
「高梨さん」
「いま」
「本日、午前十一時三十分をもって、面談記録の配布が完了しました」
僕は榛名を見た。
彼女はこちらを見ていた。動かない輪郭でこちらを見ていた。
「二百十一部です」
郡司は言った。
「電子配布が百八十四、紙が二十七」
僕は携帯を耳から離さなかった。
離せなかった。
「記載は、ご本人の発言のとおりです。——望月榛名さんが見える。生きているほうと、死んでいるほうが、両方見える——」
彼はそこで一度、息を継いだ。
「その前段に、事実関係の説明が入ります。望月榛名、当時二十四歳、三年前の事故により死亡」
「郡司さん」
「はい」
「もういいです」
僕は電話を切った。
※
僕は榛名のほうへ歩いた。
三歩だった。
六畳の部屋を、三歩で横切って彼女の前でしゃがんだ。
「榛名」
「うん」
「手を」
僕は手を伸ばした。
彼女も、手を伸ばした。
僕の右手と、彼女の左手が、同じ場所に来た。
※
通り抜けた。
抵抗はなかった。
温度もなかった。
空気を掴んだのと、まったく同じだった。
僕の指が彼女の手のひらの向こう側に出た。
僕はその指を見た。
彼女も、見ていた。
「透」
「うん」
「もう一回」
僕はもう一度やった。
同じだった。
三回やった。四回やった。五回目のとき、僕の指が震えはじめて六回目はできなかった。
「透」
「うん」
「いいよ、もう」
※
僕は床に座り込んだ。
落ちたゲラが足元で開いていた。二百三ページ。誰かの文章が赤い鉛筆の跡と一緒に、そこにあった。
「榛名」
「うん」
「まだ、いるか」
「いるよ」
「声は」
「出てる」
「見えるか」
「見えてる」
彼女はそこにいた。
膝を抱えて、輪郭を止めたまま、そこにいた。
「透」
「うん」
「泣かないでね」
僕は両手で顔を覆った。
覆った手のひらは、乾いていた。
三年と二か月、僕は泣かなかった。
この日も、泣かなかった。




