第43話 三 年、書けていない第五章
十二月の川崎は風が強かった。
沢渡詩織の部屋は、前に来たときより、段ボールが増えていた。玄関から机までの通り道が、人ひとり分になっている。
「散らかっていて、すみません」
彼女は前と同じことを言った。
湯呑みを二つ、机に置いた。
二つ。
僕はその二つ目を見た。
「今日も、二つですね」
「癖です」
詩織は言った。
「三年前から、そうなりました」
※
僕は椅子に座った。
机の上に、原稿があった。前より厚い。左上を大きなクリップで留めてある。
「報告書、進みましたか」
「四章まで書きました」
「全部で」
「五章です」
僕は原稿を見た。
いちばん上のページは、目次だった。
一章 実験の背景と目的
二章 装置および遮蔽の構成
三章 当日の経過
四章 外部観測者としての記録
五章 ——
五章の題目が空白だった。
※
「これは」
「書けないんです」
詩織は椅子に座った。
座り方は相変わらずまっすぐだった。
「三年、書けていません。題目すら決まりません」
「何を書く章なんですか」
「考察です」
彼女は湯呑みに手を触れなかった。
「一章から四章までは、事実の記述です。書けます。何が起きて、私が何を見て何をしたか。それだけなら書けます」
「五章は」
「あの実験が、成功したのか失敗したのかを、書く章です」
僕は原稿の端を見た。
「沢渡さん」
「はい」
「答えは、出てるんじゃないですか」
詩織は少し目を伏せた。
伏せて、それから、机の引き出しを開けた。
※
出てきたのはノートだった。
方眼の、大学生が使うようなノート。表紙に何も書いていない。
彼女はそれを僕のほうへ回した。
「読んでください」
僕は開いた。
式が並んでいた。
三年前の僕が書いていたものと、同じ種類の式だった。
最初の数ページは、遮蔽の評価。次に、内部観測者の状態記述。それから、外部観測者から見た記述。
途中から、字が乱れはじめる。
同じ計算を、三回、四回とやり直している。答えは変わらない。変わらないのに、やり直している。
最後のページに、一行だけ、文章があった。
——両立しない事実が、両方とも成立している。
その下に、日付があった。
二年前の、三月十四日。
※
「二年前に、出ていたんですか」
「出ていました」
詩織はまっすぐ僕を見た。
「そして、私は、それを誰にも言っていません」
「なぜ」
「言えば、どうなるか、お分かりでしょう」
僕はノートを閉じた。
「あなたが黙っている間に、僕は三年、頭がおかしいことになっていました」
「そうです」
彼女は否定しなかった。
言い訳もしなかった。
「私はあなたに、そうさせました」
※
部屋のなかが静かだった。
外で風が鳴っていた。
「高梨さん」
詩織が言った。
「私はあなたが正しい可能性を、否定できません。二年前から、否定できていません」
「じゃあ」
「ですが」
彼女は遮った。
「否定できないことと、私の記録を取り消すことは、別です」
僕は彼女の目を見た。
彼女も、逸らさなかった。
「私が一四時四一分に見たものは私が見ました。それは私の中では、動きません」
「わかっています」
「わかっていないと思います」
詩織は机の上の原稿に手を置いた。
「私が記録を取り消せば、この三年、私が書いてきたものは、全部、意味を失います。それは構いません。私一人の話ですから」
彼女の指が原稿の角を揃えた。
「取り消せないのはそこではありません」
「では、どこですか」
詩織は言った。
「望月佐和子さんが受け取った、死亡の報せです」
※
僕は返す言葉がなかった。
彼女は初めて湯呑みを持ち上げた。
持ち上げて、口をつけずに、置いた。
「高梨さん」
「はい」
「あなたは、私に何をさせたいんですか」
僕は答えられなかった。
答えを持っていなかった。
持っていないまま、ここまで来てしまった。
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