第42話 その記録に触れるのは、一人だけ
人に会わないとなると、残るのは紙とデータだけだった。
行政の記録は動かせない。死亡届は家族しか出せないし、取り消しも家族しかできない。保険金はもう支払われてたぶん使われている。
残るのは機構だった。
※
矢口に、二度目の電話をかけた。
彼は一度目より警戒していた。
「高梨さん。あのあと、俺、ちょっと調べたんですけど」
「なにを」
「あの事故。同期に機構にいるやつがいるんで訊いたんです」
僕は受話器を持ち替えた。
「なんて言ってた」
「言わないんですよ」
矢口の声が低くなった。
「そいつ、ふだんべらべら喋るやつなんです。それがあの件だけは、俺は知らないって」
「知らない」
「知らないって言うときの声じゃなかったです」
※
「ひとつだけ、教えてもらえました」
矢口は続けた。
「WF‐3の記録一式、封緘資料になってるそうです」
「封緘」
「機構の中でも、閲覧に許可が要るやつです。紙で管理してて電子化されてない。持ち出し禁止」
僕はノートを開いた。
「保管場所は」
「資料管理課」
僕の手が止まった。
「触れるのは、担当者一人だけだそうです」
「名前は」
矢口は言いにくそうにした。
「……高梨さん、それ、聞いてどうするんですか」
「聞いてどうもしない」
「嘘でしょ」
僕は答えなかった。
矢口はしばらく黙って、それから言った。
「沢渡さんです」
※
電話を切ってから、僕はノートの棚卸しの表を見た。
二、機構内部記録
その横に、書き足した。
——封緘。触れる者、一名。沢渡詩織。
鉛筆を置いた。
三年前の記録はあの人の手のなかにある。
そして、その記録の一枚目に署名しているのも、あの人だ。
書いた人が保管している。
こういう構造を、僕は仕事で何度も見た。誤植を作った人が校正も見る本は、必ずどこかで揃わなくなる。
だが今回は逆だ。
揃いすぎている。
※
その夜、榛名が言った。
「行くんでしょ」
「うん」
「沢渡さんのところ」
「うん」
彼女は卓袱台の前で膝を抱えていた。もう座るのにも、少し時間がかかるようになっていた。
「あの人に、なにを頼むの」
僕は答えなかった。
答えられなかったのは、まだ自分でも決めていなかったからだ。
記録を出せと言うのか。
記録を消せと言うのか。
どちらも、あの人にはできない。あの人は嘘をつかない人だ。
「透」
「うん」
「わたし、あの人のこと、ちょっと好きだよ」
僕は榛名を見た。
「なんで」
「三年、あの部屋に入ってないから」
彼女は卓袱台に頬をつけた。
「入らないって、けっこう、難しいと思う」
※
僕はその夜、眠れなかった。
眠れないまま、天井の木目を数えた。
七つ数えてやめた。
三年前、僕は、扉の前で六時間、開けないでくださいと言い続けたらしい。
言い続けて開けられた。
開けたのは沢渡詩織だ。
あの人が開けなければ、榛名は、いまごろ、どうなっていたのか。
考えて、僕は、すぐにその考えを止めた。
開けなければ、彼女は、あの部屋の中で、決まらないまま、いまも一人でいたことになる。
それは助かったと言えるのか。
僕は寝返りを打った。
隣で榛名の寝息がした。
その音がまた少し小さくなっていた。




