第40話 三年間、あなたは一度も泣かなかった
カーテンが開いたのは八時十二分だった。
四階の右から三つ目。白いカーテンが内側から左右に引かれた。
窓の向こうに、望月佐和子の姿が見えた。
彼女は窓を開けた。
朝の空気を入れて、それから、両手で背中を伸ばした。
榛名は膝を抱えたまま、それを見ていた。
「生きてる」
彼女は言った。
「うん」
「よかった」
僕は何も言わなかった。
※
「透」
「うん」
「わたしね、三年間、何してたと思う」
自転車置き場の屋根から、水滴が落ちていた。
夜のうちに降ったらしい。地面が濡れていた。
「わからない」
「ずっと、あなたの部屋にいたよ」
彼女は膝に顎を載せた。
「でも、最初の一年は、喋れなかった」
僕は彼女のほうを見た。
「喋れなかった?」
「うん。声が出ないの。透が起きてるときは、なんにもできない。ただ、いるだけ」
「じゃあ」
「透が寝てるときだけ、喋れた」
※
僕は口の中が乾くのを感じた。
「僕は覚えてない」
「そりゃそうだよ。寝てるんだもん」
榛名は少し笑った。
「毎晩、喋ってた。おかえりとか、ごはん食べたのとか。返事はないけど、いいの。喋れるだけでよかった」
「一年」
「うん。一年」
彼女は指で地面の水たまりに触れようとして届かなかった。
「二年目から、たまに昼も声が出るようになったの。透がわたしのことを考えてる時間が長くなったから、かも」
「三年目は」
「三年目に、あなたが振り向いた」
榛名は顔を上げた。
「去年の冬。台所で、わたしが鍋のふた開けたら、透が振り向いて、おはようって言った」
僕はそれを覚えていた。
覚えていた、というより、そこから先が僕の記憶になっている。
あの朝より前の榛名を、僕は思い出せない。
※
「三年、僕は」
僕は言葉を探した。
「君が死んだと思っていなかった」
「思ってなかったね」
「なのに、君と暮らしていたのは去年の冬から」
「そう」
榛名は頷いた。
「その二年、透が何してたか、教えてあげようか」
僕は頷けなかった。
頷かなかったのに、彼女は言った。
「なんにもしてなかった」
※
「会社行って、帰ってきて、ゲラ読んで寝る。休みの日は寝る。ごはんはコンビニ」
彼女は指を折るようにして数えた。
「電気つけないで座ってることが、よくあった。二時間とか、三時間とか。テレビもつけないで」
僕は地面を見ていた。
「わたし、その横でずっと喋ってた。返事はないけど」
彼女は僕の顔を見た。
「透」
「うん」
「わたし、三年間、あなたが一回も泣かないのを見てた」
水滴が落ちた。
「一回もだよ」
僕は口を開いた。
開いて、閉じた。
「お葬式でも泣かなかったし、四十九日でも泣かなかった。うちに帰って、一人になっても泣かなかった。電気つけないで座ってても、泣かなかった」
榛名は膝の上で両手を組んだ。
「あれ、見てるほうは、けっこう、つらいよ」
※
四階の窓が閉まった。
佐和子さんがカーテンの向こうへ消えた。
僕はしばらくそこを見ていた。
「榛名」
「うん」
「僕は泣いたら決まると思ってた」
「知ってる」
「泣かなければ、君は決まらないと思ってた」
「うん」
彼女は立ち上がった。
立ち上がって僕の前に立った。
「透。それ、順番が逆だよ」
朝日が団地の壁に当たっていた。
「決まってないから泣けないんじゃなくて、あなたが泣かないから、わたしが決まらないの」
僕は彼女を見上げた。
「三年間、あなたが、わたしを、ここに留めてるの」
榛名はそこで、初めて言いにくそうな顔をした。
「それ、うれしいことだよ。うれしいことなんだけど」
彼女は自分の手のひらを開いて、閉じた。
「それ、あなたを、めちゃくちゃにするやつだよ」




