第38話 わたしのために、誰かの事実を壊すの
僕は全部話した。
話すしかなかった。三つ嘘をついて、四つ目はもう組み立てられなかった。
新聞社に三件かけたこと。二件が止まったこと。宮田さんに会ったこと。七尾さんに会ったこと。二人に、二つの記録を並べて見せたこと。
榛名は最後まで座らなかった。
入口に立ったまま、聞いていた。
※
「なんで」
話し終えたあと、彼女はそう言った。
「君を、こっちに残すためだ」
「そんなの、わかってる」
「じゃあ何を」
「なんで七尾ちゃんなの」
彼女の声が上がった。
「あの子、三年間、毎年休み取ってたんだよ。わたしのために。有休なんて三日しかないのに」
「知ってる」
「知ってて行ったの」
「行った」
僕は卓袱台の前から動かなかった。
動けなかった、というほうが近い。
※
「わたしのために、あなたが誰かの事実を壊すの?」
榛名は言った。
言った瞬間に、彼女の手が震えたのが見えた。
「壊してない」
僕は言った。
「僕は指しただけだ。記録が二つありますって言っただけだ。どちらが正しいかは、僕には言えない。だから言ってない」
「同じだよ!」
彼女が初めて叫んだ。
四年間で初めてだった。
壁が薄いから、隣に聞こえたかもしれない。聞こえるはずがない。誰にも聞こえない声だ。
「あなたのやってることは、あの子から、泣く場所を取り上げただけだよ」
「……」
「わからないところに、人は立てないの」
榛名は両手を握っていた。
「透。あなた、七尾ちゃんの三年は、揃ってなかったから消していいと思ってるの」
僕は口を開いた。
開いて、何も言えなかった。
※
部屋のなかが静かになった。
豆電球がじじ、と鳴った。
「わたし」
榛名が言った。
さっきより、ずっと小さい声だった。
「湯呑み、持てるようになったの、嬉しかった」
僕は顔を上げられなかった。
「箸も持てたし、洗濯物も畳めた。襖も開けられた」
彼女は自分の手を見ていた。
「あれ、全部、七尾ちゃんの三年だったんだ」
「榛名」
「わたし、それで喜んでたんだ」
※
僕は立ち上がった。
立ち上がって、一歩、近づいた。
榛名が一歩、下がった。
下がられたのは初めてだった。
「榛名」
「来ないで」
「話を」
「聞きたくない」
彼女は玄関のほうへ体を向けた。
「透。あなた、わたしを助けようとしてるんじゃないよ」
振り返らずに言った。
「三年前に開けさせたことの、埋め合わせをしてるだけだよ」
※
彼女は玄関へ降りた。
サンダルを履いた。履けた。
三日前まで履けなかった。
ドアノブに手をかけた。
かかった。
回った。
開いた。
僕はその一部始終を見ていた。
彼女がドアを開けられるようになったのは、僕がやったことの結果だ。
僕が新聞社に電話をかけて、宮田さんに二枚の紙を見せて、七尾さんの三年を揺らして、そうやって作った力で、いま、彼女はこの部屋を出ていこうとしている。
「榛名」
彼女は振り返らなかった。
「わたし、ちょっと、ひとりになる」
ドアが閉まった。
閉まる音がいつもより大きかった。
僕は玄関に立ったまま、その音の残りを聞いていた。
外は十二月の入口だった。




