第36話 私は、全部書きます
郡司から電話が来たのは十一月の終わりだった。
「三件、消えましたね」
僕はゲラを見ていた手を止めた。
「消えていません。一件は非公開、二件は訂正待ちです」
「言い方が正確ですね」
郡司は少しだけ声の調子を変えた。褒めているのか、呆れているのか、判別できなかった。
「宮田節子さんと、七尾理恵さんにもお会いになった」
「調べたんですか」
「お二人が、それぞれ別のところに問い合わせをされました。宮田さんは機構の総務に、七尾さんは市の窓口に。記録が二つあるというのは本当か、と」
僕は鉛筆を置いた。
「どう答えたんですか」
「本当です、と答えました」
※
僕は受話器を持ち替えた。
「否定しないんですか」
「否定しません。事実ですから」
「あなたは、事実を一つにする仕事をしているんじゃないんですか」
「しています」
郡司の声は変わらなかった。
「ですから、否定しないのです。否定は事実を二つのままにします。私はそのつど記録を作ります。——問い合わせがあり、記録が二系統存在する旨を回答した。回答を受けた本人は、混乱を示した」
僕は目を閉じた。
「その紙にも」
「入ります。望月榛名さんが死亡した、という記載が」
※
「郡司さん」
「はい」
「なぜ、止めないんですか」
彼は少し黙った。
黙ったのは初めてだった。
「止められるからです」
「意味が分かりません」
「私はいつでも止められます。あなたのやっていることは、法的にはかなり際どい。文書の提示の仕方も、名乗り方も、詰めれば詰められます。ですが詰めれば、あなたは黙ります」
電話の向こうで紙が動いた。
「黙った人間は、次に、隠れます」
僕は天井を見上げた。
「隠れられると、私は数えられません」
「数える」
「あなたが接触した相手を、私は全部、記録しています。あなたが減らした分だけ、私の記録が増えます」
僕の手が冷たくなった。
「あなたは、あの方の死の複製を、減らしていない」
郡司は言った。
「作り替えているだけです。新聞の記事を、私の報告書に」
※
電話が終わったあと、僕はしばらく座っていた。
座ってノートを開いた。
棚卸しの表を見た。
一、報道 五件 → 三件(非公開・訂正待ち)
消したはずの二件の横に、僕は新しい行を書き足した。
——内閣府 事象整合室 接触記録 (件数不明)
鉛筆を持つ指が少し震えた。
これは勝てない構造だ。
僕が一つ消すたびに、あの人が一つ書く。あの人の紙は僕の紙より配布先が多い。
僕が動けば動くほど、比が悪くなる。
※
「透」
襖が開いた。
榛名が立っていた。
立って襖の縁に手をかけていた。開けたのは彼女だ。
二日前までは開けられなかった。
「なんか、あった?」
「なにも」
「ほんとに?」
僕はノートを閉じた。
「ほんとに」
三つ目の嘘だった。
榛名はしばらく僕を見ていた。
それから、部屋に入ってきて、僕の背中を、指で二回つついた。
押し返しがあった。
以前の、八割ほど。
僕はその八割を、両手で受け止めるようにして黙っていた。
黙りながら、頭のなかで、次に会う人の顔を三人分、思い浮かべていた。




