第32話 赤鉛筆で、二文字だけ書いた
面談は十一月十六日だった。
場所は区の教育センターだった。僕は行かなかった。行っても、廊下に立っているだけになる。
代わりに、郡司に電話をかけた。
三回目の呼び出しで出た。
「高梨さん」
「あの子の面談、あなたが仕組んだんですか」
「事業は三年前からあります。あの子が対象になったのは私の判断です」
あっさりと認めた。
「証言を、潰すつもりですか」
「潰しません」
郡司の声はいつもと同じだった。
「記録します」
※
僕は受話器を握り直した。
「記録してどうするんですか」
「記録が、どう書かれるかをお考えください」
僕は考えた。
考えて、五秒で分かった。
分かった瞬間、膝から力が抜けた。
「……そういうことか」
「ご理解が早い」
郡司は言った。
「あの子は、こう言うでしょう。望月榛名さんが見える、と。私どもはそれを否定しません。そのまま書きます」
彼は事務的に続けた。
「——対象児童は、三年前の事故により死亡した望月榛名(当時二十四)を視認したと訴えた」
僕は目を閉じた。
「この一文には、あの方が死亡したという事実が、含まれます」
「含まれます」
「この文書は、教育委員会、大学病院、内閣府、それから研究班の参加機関に配られます」
郡司はそこで少しだけ間を置いた。
「配布先は、二百十一です」
※
「あの子の言うとおりに書くんですね」
「書きます」
「一字も曲げずに」
「曲げません。曲げる必要がありませんから」
僕は壁にもたれた。もたれないと立っていられなかった。
「私は証言を消して回る仕事をしていると思われていたようですね」
郡司は言った。
「逆です。私は全部書きます。全部書けば、書いた紙の中に、多数派の事実が必ず入ります。そして紙は勝手に増えます」
電話の向こうで紙をめくる音がした。
「否定は、事実を二つのままにします。記録は事実を一つにします」
僕は天井を見上げた。
「戸倉さんも」
「そうです」
「あの人の証言も、全部書いたんですか」
「書きました」
郡司は言った。
「診断名と一緒に」
※
電話を切った。
切ってから、僕はしばらく玄関に座っていた。
部屋の奥で榛名が僕を見ていた。何も訊かなかった。訊かないことで、全部分かっているのが伝わった。
僕は立ち上がって机の引き出しを開けた。
ノートを出した。赤鉛筆を削った。
三年間、僕はこのノートに、同じ書式で書き続けてきた。
——ここが揃っていません。ご確認ください。
指すだけの仕事だ。直しは書かない。どちらが正しいかは、僕には分からない。
分からないから、指すだけにしてきた。
僕は新しいページを開いた。
開いて、赤鉛筆を紙に当てた。
※
校正には、もうひとつの記号がある。
文字を消したいとき、校正者はそれを塗りつぶさない。線を引いて、行の外に短く書く。
トル。
取る、という意味だ。トルツメ、トルアキ、書き方はいくつかあるが、意味はひとつしかない。
——これは無かったことにしてください。
三年間、僕は一度もこれを書かなかった。
書けるのは明らかに間違っているものだけだ。間違っていると言い切れないものに、トルは打てない。
僕は書いた。
——望月榛名 死亡 トル
赤い字が方眼の上に載った。
載って、そのまま、動かなかった。
僕はその二文字を、長いこと見ていた。
これは指す仕事ではない。
消す仕事だ。
僕は校正者をやめた。
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