第31話 あの子、来年 から学校に戻れるんです
十一月に入って、榛名はいろいろなことができなくなった。
湯呑みは持てない。襖は開けられない。洗濯物は畳めない。
できることはまだあった。歩ける。喋れる。座れる。僕の背中を指で二回つつくのも、まだできた。触れられたときの押し返しは、以前の三割ほどになっていた。
僕はその割合を毎日測っていた。
測ることを、やめられなかった。
※
ケイの母親から電話が来たのは十一月九日だった。
番号を教えたのは僕のほうだ。何かあったら、と言って渡した名刺の番号にかかってきた。
「高梨さん。あの、変なことをお訊きしますけど」
声が明るかった。
明るいのがまず引っかかった。
「はい」
「内閣府の、郡司さんって方、ご存じですか」
僕は携帯を持ち替えた。
「知っています」
「よかった。詐欺かと思って」
彼女は笑った。
「うちの子のことで、ご相談に乗ってくださるって」
※
団地の台所でまた麦茶が出た。
テーブルの上に、書類が広げてあった。三枚組で、いちばん上に「支援決定通知」とある。
僕はその組み方を見た。本文九ポイント、行送り十六歯。四谷で見たのと同じ書式だった。
「区の教育委員会と、大学病院と、あと内閣府の研究班が一緒にやってる事業なんですって」
彼女の指が二枚目をめくった。
「不登校の子で、その、感覚が過敏だったり、人と違うものが見えたりする子を対象にした支援で。面談を何回か受けると、学習支援と、医療費の補助が出て」
僕は三枚目を見た。
いちばん下に、細かい字があった。
——本事業における面談内容は、匿名化のうえ、事象整合に係る基礎資料として記録・保存されます。
字が小さい。六ポイントもない。
だが隠してはいなかった。ちゃんと書いてある。
あの人はそういう人だ。
※
「もう、出したんですか」
「はい。おととい」
彼女は笑った。
「あの子、来年から学校に戻れるかもしれないんです」
僕は麦茶に手を伸ばした。伸ばして掴まなかった。
「いいことです」
そう言った。
言うしかなかった。
この人は一年間、毎日三時二十分に公園へ迎えに行った人だ。この人から、それを取り上げる資格が、僕にあるはずがない。
「高梨さん」
「はい」
「ケイが、高梨さんに会えてよかったって言ってました」
僕は湯呑みの水滴を見ていた。
「あの子、自分の見えてるものを、頭がおかしいって言わない大人に、初めて会ったって」
※
帰り道、ケイが下まで送ってきた。
団地の階段を、三段先を歩いて降りる。振り返っては待つ。子どもの歩き方だった。
「おじさん」
「なんだ」
「面談ってなにするの」
「話をするだけだと思う」
「なにを」
「見えるものを」
ケイは手すりを掴んだ。
「言っていいのかな」
僕は足を止めた。
止めて、この子に何を言うべきかを、三秒で決めなければならなかった。
言うな、と言えば、この子は嘘をつくことになる。
言え、と言えば、たぶん榛名が死ぬ。
「ケイくん」
「うん」
「本当のことを言っていい」
僕は言った。
「でも、覚えておいてほしいことがある」
「なに」
「君が言ったことは、紙に書かれる。書いた紙はたくさんコピーされる」
ケイは僕を見上げた。
「コピーされると、どうなるの」
僕は答えられなかった。
答えられないまま、階段を降りた。
外に出ると、榛名が待っていた。
電柱の脇で、上着の袖を掴んで立っていた。
その袖の先が少し透けていた。




