第30話 お母さんには、言わないで
その夜、榛名は珍しく、先に布団に入らなかった。
卓袱台の前に座って、僕がゲラを読むのを見ていた。仕事はほとんど減らされていた。岸田さんが気を回したのだと思う。四百ページのはずが、百二十ページしか来ていない。
「透」
「うん」
「今日、お母さんの家でなに考えてた」
僕は鉛筆を止めた。
止めたことで答えたのと同じになった。
「位牌のこと?」
「……うん」
「そう」
榛名は卓袱台に頬をつけた。横向きになって僕のほうを見た。
その姿勢が四年前から変わっていない。
「透」
「うん」
「約束して」
※
「お母さんには、言わないで」
僕は鉛筆を置いた。
「言えば、変わるかもしれない」
「変わるよ」
「わかってて言ってるのか」
「わかってる」
彼女は卓袱台に頬をつけたまま言った。
「わたしが生きてるって、お母さんが信じたら、その分だけ、わたしは濃くなる。あの人、三年間ずっとわたしのことだけ考えてるんだよ。あの人の信じる力、たぶん、透の百倍あるよ」
僕は何も言えなかった。
計算のとおりだった。彼女は僕より正確に理解していた。
「でもね」
榛名はゆっくりと体を起こした。
「それで、うまくいかなかったら」
彼女は自分の両手を見た。
湯呑みを持てなくなった手を見た。
「お母さんは、もう一回、わたしを死なせることになる」
※
部屋のなかが静かだった。
隣の部屋の人が帰ってきた音がした。鍵を回して、ドアを開けて閉める。三つの音。壁が薄いから、全部聞こえる。
「三年かけて、やっと慣れたって言ってたでしょ」
「言ってた」
「あれ、ほんとに大変だったと思う」
榛名は膝を抱えた。
「わたしね、お母さんが泣いてるところ、一回だけ見たことあるの。小学校のとき。夜中に起きたら、台所で電気つけないで泣いてた」
彼女の声が少し低くなった。
「あのとき、わたし、寝たふりした」
「うん」
「見ちゃいけないと思ったから」
僕はゲラの端を折った。折り目がついた。校正者がいちばんやってはいけないことだった。
「透」
「うん」
「わたし、お母さんに、もう一回わたしを死なせるのはいや」
彼女はまっすぐ僕を見た。
「それだけは、いや」
※
僕はしばらく黙っていた。
黙っている間に、いくつも計算した。
位牌を下ろさせずに勝てる方法。母親に触れずに複製を減らす方法。市の記録、保険、機構の書類、報道、SNS。全部足して、佐和子さんの一週間分に届くかどうか。
届かない。
届かないことは計算しなくても分かっていた。
「わかった」
僕は言った。
「約束する」
榛名の肩から、力が抜けた。
抜けたのが見えた。輪郭が薄くなっている分、そういう動きがよく分かるようになっていた。
「ありがと」
「その代わり」
僕は鉛筆を持ち直した。
「他は、全部やる」
「全部って」
「紙も、データも、人の記憶も」
榛名は少しだけ眉を寄せた。
「それ、悪いことじゃないの」
「悪いことだ」
僕はゲラの折り目を、指で伸ばした。
伸ばしても、跡は消えなかった。
「でも、僕は君の側の事実を持ってる、たった一人の人間だ」
彼女は何か言おうとしてやめた。
三つ訊いて、四つ目は訊かない。
僕はその四つ目を、四年待っていた。
そして、たぶん、この夜も来なかった。




