第29話 母親から、悼む場所を奪えるか
帰りのバスで僕はずっと窓を見ていた。
小平から中野まで乗り換えが二度ある。乗り換えのたびに、頭のなかで同じ計算を繰り返した。
あの部屋には、位牌がある。
カレンダーが三年前の十月で止まっている。
週に一度、窓が開けられる。
命日に花が挿される。
それは全部、望月榛名が死んだという事実の、複製だ。
いちばん濃い複製だ。役所の書類より濃い。新聞より濃い。SNSの二百三十七件より、ずっと濃い。
なぜなら、あれは毎週、更新されているからだ。
※
郡司は言った。
——向こう側の事実を、減らす。
——できます。
——紙は捨てられる。データは消せる。人の記憶は放っておけば薄くなる。
僕はあの部屋を思い出した。
位牌を、下ろす。
カレンダーを、めくる。
窓を拭くのをやめる。
命日に花を買うのをやめる。
そうすれば、複製が減る。減れば、比が変わる。
理屈のうえではそうだ。
※
バスが赤信号で止まった。
横断歩道を、老人が渡っていた。ゆっくり渡っていた。青が点滅しても、歩幅が変わらなかった。
僕はその人を見ながら、自分の考えていることを、はっきりと言葉にした。
僕はあの人から、悼むことを取り上げようとしている。
三年かけて、息ができなくなって、救急車を呼んで、それでも続けてきたものを、やめさせようとしている。
やめさせて榛名を取り戻す。
バスが動き出した。
僕は額を窓につけた。冷たかった。
※
「透」
榛名の声がした。
隣の座席にいた。いつからいたのかは分からない。
「あの部屋、きれいだったね」
「うん」
「わたし、あんなにきれいにしたことないよ」
彼女は前の座席の背を見ていた。
「お母さん、掃除は苦手だったのに」
僕は口を開いた。
開いて、何も言わずに閉じた。
「訊かなくてよかったね」
榛名が言った。
僕は彼女のほうを見なかった。
「なにを」
「位牌、下ろしてくださいって」
バスが揺れた。
※
部屋に帰って僕はノートを開いた。
開いて、二十分、何も書かなかった。
書けることは一つしかなかった。
——望月佐和子。位牌、カレンダー、清掃、供花。複製、継続的に更新中。
書いた字が他人の字みたいに見えた。
僕はその行を見た。
人が死んだあとに残るものを、僕はいま、数量として書いている。
三年前の僕は遮蔽材の等価質量を計算していた。壁を何層にすれば情報が漏れないかを計算していた。
そのときも、同じ字を書いていた。
同じ手で同じ鉛筆で。
※
鉛筆を置いた。
置いた手でその行に線を引いた。
消しゴムは使わなかった。使えば、書いたことがなかったことになる。
線を引くだけにした。
書いたことは残る。
残したうえでやらない。
僕はその下に一行だけ書いた。
——望月佐和子には、触れない。
書いてから、しばらくしてもう一行足した。
——ただし、それ以外は、全部やる。
台所で鍋の蓋が鳴った。
榛名が湯を沸かしていた。
彼女はもう、鍋を持ち上げられない。
だから、水を張った鍋を火にかけたまま、それを見ているだけだった。
僕は立って、台所へ行って代わりに白菜を切った。
幅は揃わなかった。




