第26話 三十秒の迷いが、十九人を殺した
「先ほどの、手の話ですが」
僕が帰ろうとしたとき、郡司はそう言った。
僕はドアのノブから手を離した。
「順番が来ました。お座りください」
※
「平成十四年の三月です」
郡司は机の上で両手を組んだ。左手が下だった。
「ある私鉄で追突がありました。死者十九名。負傷者百三十二名」
僕はその事故を知らなかった。
「ご存じないでしょう。当時の報道は三日で消えました」
「なぜ」
「原因が説明できなかったからです」
彼は組んだ手をほどかなかった。
「先行列車が駅に停止していた。後続が進入した。それだけの事故です。防ぐ仕組みは何重にもありました。そのすべてが、正常に動いていました」
「正常に」
「はい」
郡司はそこで一度、息を吸った。
「運行記録が、二系統残ったのです」
※
僕は椅子の上で動けなくなった。
「片方の記録では、先行列車は停止していました。もう片方では進行中でした」
「同じ列車の」
「同じ列車の、同じ時刻の記録です。信号所のログも二つありました。どちらも改竄されていない」
彼の指が机の上で少しだけ動いた。
「指令所の当直は、二つの画面を見ました。片方は赤、片方は青でした」
部屋が静かになった。
「彼は、確認を取ろうとしました。当然です。無線で先行列車を呼びました。応答がありました。応答の内容は——停止中である、と——進行中である、と——二つ、同時に聞こえたそうです」
僕は口の中が乾いていた。
「彼は、三十秒、決断できませんでした」
郡司はそこで手をほどいた。
「三十秒です。あの区間は三十秒で八百メートル進みます」
※
「私は二両目に乗っていました」
僕は顔を上げた。
「当時、法務省におりました。前身の部署です。ちょうど、記録の二重化の事案を三件抱えていた頃で、そのうちの一件がその私鉄でした。私は調査のためにその列車に乗っていました」
彼はまた左手を机に置いた。
今度は隠さなかった。
「車両が横倒しになって、床だった場所が壁になりました。私は座席と手すりの間に挟まりました。すぐ横で配電盤が燃えていました」
彼は手の甲を見ていた。
「私の左手は、その配電盤の縁に触れていました。三十分ほど」
「動かせなかった」
「動かせませんでした。両側から挟まれていましたから」
郡司の声は最後まで平坦だった。
「痛みは、途中から分からなくなりました。ただ、匂いだけは、いまでも」
彼はそこで言葉を切って手を引いた。
※
「あの事故のあと、私の部署は名前を変えて内閣府に移りました」
郡司は鞄を膝に載せた。
「予算がつきました。人も増えました。理由は簡単です。役所が初めて、事実の二重化で人が死ぬところを見たからです」
「あなたは」
僕はなんとか声を出した。
「あなたは、それでこの仕事を」
「そうです」
彼は立ち上がった。
「私が扱っているのは、超常現象ではありません。三十秒です。人が二つの事実を前にして、決められなくなる三十秒です。私はあの三十秒を、二度と作りたくない」
彼は鞄を提げた。
「高梨さん」
「はい」
「私はあなたの彼女を憎んでいません」
郡司はドアの前で振り返った。
「私は二つある事実を憎んでいます」
※
外へ出ると、雨が降っていた。
傘を持っていなかった。
僕は四谷の坂を、濡れながら歩いた。
濡れながら、考えていた。
あの人は正しい。
三十秒で十九人が死ぬのなら、事実は一つにしなければならない。それは正しい。
だから僕は正しい人と戦うことになる。
いちばん、負ける戦いだ。




