第25話 その発想は、お捨てください
郡司に会いたいと言うと、彼は同じ四谷の部屋を指定した。
ブラインドはこの日も下りていた。長机に椅子が四脚。彼は先に来ていて、この日は書類を出していなかった。
「合わせる決心がつきましたか」
「つきません」
「では、何のご用でしょう」
僕は椅子に座った。
「教えてほしいことがあります」
「私に答えられることでしたら」
「あなたの左手」
郡司の指が鞄の持ち手の上で止まった。
止まっただけだった。彼は隠さなかった。テーブルの上に、左手を出した。
蛍光灯の下で見ると、火傷の痕は思ったより広かった。手の甲から手首を越えて袖の奥まで続いている。皮膚が引き攣れて白と赤の斑になっている。
「これは答えられます」
彼は言った。
「ただし、順番があります」
※
「高梨さん。あなたはいま、勝つ方法を探しておられる」
「はい」
「探し方は、二つしかありません」
郡司は指を二本立てた。
「ひとつ。あなたの側の事実を増やす」
僕は黙っていた。
増やすのは無理だ。それはもう試した。試した結果、榛名は湯呑みを持てなくなった。
「もうひとつ」
郡司は二本目の指を折った。
「向こう側の事実を、減らす」
部屋の空気が変わった気がした。
「一度だけ申し上げます」
彼の声はいままででいちばん低かった。
「その発想は、お捨てください」
※
僕は椅子の上で背筋を伸ばした。
「なぜですか」
「できるからです」
「できるんですか」
「できます」
郡司は左手を鞄の上に戻した。
「死亡の記録は、思っているほど頑丈ではありません。あれは石ではない。紙とデータと、人の記憶です。紙は捨てられる。データは消せる。人の記憶は放っておけば薄くなる」
僕の指先が冷たくなった。
「減らせば、比が変わります。多数派が減れば、少数派が相対的に強くなる。理屈のうえではそうです」
「じゃあ」
「高梨さん」
郡司は遮った。
この人が人の話を遮るのを、僕は初めて見た。
「あなたが減らそうとしているものは紙ではありません」
彼は言った。
「誰かが、あの方を悼んだ記録です」
※
僕は何も言えなかった。
言えないまま、三十秒ほど座っていた。
郡司はその三十秒を、黙って待った。
「三年前の四人の話を、覚えておいでですか」
「覚えています」
「三人は合わせました」
「残りの一人は」
「合わせていません」
郡司は鞄を開けて一枚のコピーを出した。
施設の入所者名簿の、一部だった。名前が黒く塗られている。塗り残しが一つだけある。
——戸倉 勝男(78)
「機構の警備員でした。定年後の再雇用で正門の詰所にいた方です」
「その人が」
「三年前の十月十七日、午後六時二十分に、望月榛名さんが正門を出るのを見たと言っています」
僕はコピーを掴んだ。
「いまも言っています。毎日、看護師に言っています」
郡司は僕の顔を見なかった。
「昨年、診断がつきました」
「診断」
「アルツハイマー型認知症です」
紙が指の間で音を立てた。
「診断がついた日から、あの方の証言は、記録に残らなくなりました」
※
僕はコピーを持ったまま立ち上がった。
立ち上がってから座り直した。
郡司が初めて僕を正面から見た。
「高梨さん」
「はい」
「これが、少数派の事実を持った人間の、いちばん普通の終わり方です」
彼は左手をテーブルの下に隠した。
隠してからこう言った。
「あなたも、そうなります」




