第24話 六秒、検索させただけで
確かめずにいられなかった。
式は書けた。理屈も通っている。だが書いた紙が正しいかどうかは、書いた紙には書いていない。
僕は確かめた。
※
岸田さんを、部屋に呼んだ。
ゲラの受け渡しは口実だった。彼はいつもどおり歩いてきて、いつもどおり座布団を使わずに膝をついた。
僕は茶を一つだけ淹れた。
「一杯だけですか」
「一杯だけです」
岸田さんはその言い方に何かを感じたらしい。ゲラの束を脇に置いて、こちらを見た。
「高梨」
「はい」
「前に、湯呑みが二つあった」
「ありました」
「あれ、なんだったんだ」
僕は卓袱台の木目を見た。
榛名は部屋の隅にいた。膝を抱えてこちらを見ていた。
言うな、という顔だった。
僕は言った。
「三年前に死んだ人が、うちにいます」
※
岸田さんは笑わなかった。
驚きもしなかった。この人は驚くという表情をあまり持っていない。
「名前は」
「望月榛名。当時二十四歳。相模原の研究機関の事故で亡くなりました」
「亡くなった」
「亡くなりました。同時に生きています」
岸田さんはしばらく僕を見ていた。
それから、上着のポケットから携帯を出した。
「調べていいか」
僕はそこで止めるべきだった。
止められたはずだった。止めなかったのは確かめたかったからだ。
「どうぞ」
※
岸田さんの親指が、画面の上を動いた。
六秒。
彼の目が上から下へ、一度だけ滑った。
「……相模原の、実験装置の事故」
彼は読み上げた。
「非常勤職員、望月榛名さん、二十四歳、死亡」
部屋の隅で音がした。
榛名が膝を抱えていた手をほどいた音だった。
僕は見た。
彼女はそこにいた。いたが輪郭の外側が、壁の柄と混ざっていた。壁紙のクリーム色が、彼女の肩の線を通り抜けて見えた。
「高梨」
「はい」
「亡くなってるじゃないか」
岸田さんの声は優しかった。
優しかったのがいちばんこたえた。
※
彼は三十分いて、帰った。
帰り際に、休みを取れとだけ言った。仕事は回す、無理はするな、その二つを、彼にしては長い文章で言った。
ドアが閉まった。
僕は部屋の隅を見た。
「榛名」
返事があった。
あったが遠かった。
同じ部屋にいるのに、隣の部屋から聞こえるような声だった。
「言ったのに」
「うん」
「言うなって顔でわかるでしょ」
「わかった」
「わかっててやったんだ」
彼女は立ち上がろうとして途中で膝をついた。
僕は駆け寄って腕を掴んだ。
掴めた。掴めたが感触が違った。三日前まで、彼女の腕は僕の指を押し返してきた。いまは押し返しがない。
握った分だけ、沈む。
「透」
「うん」
「湯呑み、持てないや」
彼女は卓袱台の上の湯呑みを見た。手を伸ばした。指がかかった。
持ち上がらなかった。
※
僕はその夜、ノートを開かなかった。
書くまでもなかった。
一人だ。
たった一人に、たった六秒、検索させただけだ。
それで、彼女は湯呑みを持てなくなった。
あの記事は三年間そこにあった。誰も読んでいなかった。読まれていない記事は、複製されていないのと同じだ。
読まれた瞬間に、一つ増えた。
僕が増やした。
※
布団を敷いて、明かりを消した。
暗闇のなかで榛名の声がした。
「透」
「うん」
「もう、しないで」
僕は天井を見ていた。
木目は暗くて数えられなかった。
「しない」
「ほんとに?」
「しない」
しばらくして寝息が聞こえた。
その寝息が三日前より小さいことを、僕は聞いてしまった。




