第21話 あの人は三年、あの部屋に入っていない
帰り際、玄関で靴を履きながら、僕はもう一つだけ訊いた。
「沢渡さん。いま、機構では何を」
「資料管理課にいます」
「実験は」
「していません」
彼女は框に立っていた。上がり框の上から、僕を見下ろす形になる。
「三年、していません」
「異動ですか」
「希望です」
僕は靴紐を結ぶ手を止めた。
「自分で出したんですか」
「はい」
詩織はドアノブに手をかけた。
「私はあの部屋に、一度も入っていません」
※
「事故のあとに、ということですか」
「事故の日にも、です」
僕は顔を上げた。
「開扉されたんですよね」
「開けました。扉の外から、レバーを引きました。それから中に入って脈を取りました」
「入ってるじゃないですか」
「入りました」
詩織はそこで言葉を切った。
「そのあと、一度も」
彼女の指がドアノブの上で少しだけ動いた。
「あの棟には、月に二度、資料を取りに行きます。廊下は通ります。扉の前も通ります。中には入りません」
「なぜ」
訊いてから僕は後悔した。
訊かなくても分かる質問だった。分かっていて訊いたのだから、たちが悪い。
「わかりません」
詩織は言った。
「理由をつけようと思えば、いくつでもつきます。心的外傷。回避行動。私は臨床の人間ではありません。正しい名前は知りません」
彼女はドアを開けた。
外の空気が入ってきた。十月の終わりの、乾いた冷たい空気だった。
「ただ、名前をつけても、私が入らないという事実は変わりません」
※
階段を降りて、集合住宅の裏の駐車場まで来たところで榛名が追いついてきた。
彼女はずっと、廊下にいたはずだった。
「聞いてた?」
「聞いてた」
彼女は僕の半歩後ろを歩いた。歩幅が合わないので、二歩に一度だけ跳ねる。
「あの人、いい人だね」
「そうか」
「うん。だって、脈の取り方まで覚えてるんだよ」
僕は足を止めた。
榛名も止まった。
「榛名」
「なに」
「怒らないのか」
彼女は駐車場のブロック塀に手をついた。
白いブロックだった。触れたところに、埃の跡がつく。あとで誰かが見たら、その跡は無くなるだろう。
「怒れないよ」
彼女は言った。
「あの人、間違ってないもん」
「君は生きてる」
「うん。でも、あの人が見たのも、ほんとなんでしょ」
僕は答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
※
バス停まで歩いた。
一時間に三本しかない路線で次のバスまで二十分あった。ベンチはなかったので、二人で立っていた。
「透」
「うん」
「あの人、まだ入ってないんだって」
「そうだな」
「三年、一回も」
榛名は電柱の広告を見ていた。学習塾の、色の褪せたやつだった。
「あの人、たぶん、知ってるんだよ」
「なにを」
「入ったら、決まっちゃうこと」
僕は彼女の横顔を見た。
見て逸らさなかった。
「知ってて入ってないんだと思う」
バスが来た。
乗ったのは僕ひとりだった。
運賃箱の表示は二人分だった。




