第20話 僕は昨日、あの子と鍋を食べました
「僕はあの子と昨日、鍋を食べました」
言ってしまってから僕は自分の声を聞いた。
思ったより静かだった。叫んでいなかった。取り乱していなかった。ただ、事実を報告する声だった。
沢渡詩織は僕を見た。
顔色は変わらなかった。ただ、湯呑みに伸ばしかけていた手が、机の上で止まった。
「白菜が高くて、半分しか入っていませんでした。うどんを入れるのが早すぎて伸びていました。豆腐は崩れていました。あの子は灰汁を取りすぎます」
「高梨さん」
「昨日です」
僕は言った。
「三年前じゃない。昨日です」
※
詩織はしばらく黙っていた。
黙っている間、彼女は僕の顔を見ていた。逸らさなかった。人の目を見て話す人だ。三年前からそうだった。
「私は脈を取りました」
やがて彼女は言った。
「開扉して、三歩で近づいて、右の手首を取りました。皮膚が冷たかった。冷たいのは室温が十四度に落ちていたからです。それから頸を取りました。三十秒数えました。ありませんでした」
彼女の指が机の上で脈を取る形に動いた。
三年前と同じ動きを、いま、なぞっている。
「私はそれを見ました。それは事実です」
「そうでしょう」
「疑っていないんですか」
「疑っていません」
僕は言った。
「あなたは嘘をついていない。僕も嘘をついていない」
詩織の眉が初めて動いた。
※
「高梨さん」
彼女は椅子の背に手をかけた。
「いま、あなたが言っていることが、何を意味するか、分かっていますか」
「分かっています」
「言ってみてください」
僕は喉に唾を溜めた。
溜めて飲み込んだ。
「WF‐3は、成功した」
部屋の空気が動かなくなった。
「箱の中の観測者と、箱の外の観測者が、両立しない事実を持った。それが三年間、両方とも生き残っている。実験は失敗したんじゃない。成功してそのまま終わっていない」
詩織は微動だにしなかった。
「僕が言っているのはそういうことです」
※
彼女はゆっくりと立ち上がった。
段ボールの壁のほうへ行って、いちばん下の箱を引き出した。中からファイルを一冊抜いて、戻ってきて机に置いた。
背表紙に、印字があった。
——WF‐3 外部観測者記録 沢渡詩織
「これが、私の観測です」
彼女はファイルの上に手を置いた。
「三年前の一四時三三分、私は観測窓から内部を見ました。見た内容はここに書いてあります。書いて、署名して、日付を入れて機構に提出しました。それは受理され、複製され、事故調査委員会に渡り、警察に渡り、検察に渡り、遺族に渡りました」
彼女の手がファイルを軽く叩いた。
「私はこの紙を、取り消せません」
「取り消してくれとは言っていません」
「言っていなくても、そうなります」
詩織は僕を見た。
初めてその目に何かが揺れた。
「あなたの言うとおりだとしたら、望月さんが生きているという事実は、いま、あなた一人が持っている。私の記録はその反対側にある。私の記録には複製が何百とあって、あなたの側には三十七枚のレシートしかない」
彼女は椅子に座り直した。
「これは勝負になりません」
※
僕は湯呑みを持ち上げた。
三年ぶりに人と話しすぎた口の中が、乾ききっていた。ぬるくなった茶を、一息で飲んだ。
「沢渡さん」
「はい」
「あなたは、僕が嘘をついていると思いますか」
彼女は答えるのに、たっぷり十秒かけた。
「思いません」
「じゃあ、なんだと思いますか」
沢渡詩織は机の上のファイルを見た。
見て、それから、こう言った。
「怖いことだと思います」
それがこの日、彼女が唯一こぼした本音だった。




