第2話 肉まんを二つ頼んだのに
「僕の」
そう答えるまでに、どれくらいかかったのかは分からない。一秒だったかもしれないし、五秒だったかもしれない。ただ、答えたあとで自分の声の平坦さに驚いたことは覚えている。
「二杯淹れる癖があって。冷めたやつと熱いやつと」
「へえ」
岸田さんはそれ以上は追及しなかった。
この人は追及しない人だ。校正者というのは、指摘は書くが口では言わない生き物である。おかしいと思ったことは全部、鉛筆で余白に書く。声に出したら負けだと思っている節すらある。
彼はゲラの日程をもう一度確認して、湯を半分だけ飲んで帰っていった。玄関の外で靴の踵を鳴らして階段を降りる音が遠ざかる。三階から下まで十九段。数えなくても分かる。
部屋の中は静かになった。
卓袱台の上に、湯呑みが二つ。
ひとつは僕のもので、半分ほど減っている。もうひとつはなみなみと満ちている。
榛名はそれを両手で包んで飲んでいる。
僕はその二つを、同時に見た。
見て、それから、視線を外した。
※
僕には、昔から目を逸らす癖がある。
自慢できることではない。人の顔を正面から見るのが苦手で、話しているときも相手の耳のあたりを見る。信号が変わりそうなときも、まっすぐ見ずに横断歩道の白線を数える。子どものころ、母に「透は人の目を見ない子だ」とよく言われた。言われるたびに、僕は母の口元を見ていた。
大学に入ってから、それは少しだけ役に立つようになった。
物理をやっていると、正面から見てはいけないものがいくつかある。答えの出ていない式を睨みすぎると、出したい答えのほうに勝手に近づいていく。人間の頭というのは、そういうふうにできている。見たいものを見る装置だ。だから僕はいつも斜めから見る癖をつけた。指導教員には「高梨は結論を急がないところがいい」と褒められたこともある。
いま思えば、あれは訓練ではなかった。
僕はただ、確かめることが怖かっただけだ。
「透」
榛名が呼んだ。
「なに」
「べつに」
彼女は湯呑みを卓袱台に置いた。
かたん、と音がした。
音は確かにした。僕はその音を、耳で聞いた。聞いたということは、空気が震えたということで、空気が震えたということは、そこに湯呑みを置いた手があったということだ。
僕は湯呑みを見なかった。
見れば、たぶん、なみなみと満ちたままだったから。
※
夕方、コンビニに出た。
ゲラを明日の朝までに戻すなら、夕飯を作っている時間はない。肉まんを二つ買うつもりだった。榛名は肉まんの皮を先に全部剥がして中身だけ最後に食べる。行儀の悪い食べ方だが、彼女はそれをやめない。子どものころからそうだったらしい。
「肉まん、二つ」
店員は若い男で、返事もせずにケースを開けた。トングが動く。紙の袋が擦れる音。それから彼は袋をひとつだけカウンターに置いた。
「百八十円になります」
僕は袋を見た。ひとつだ。
「二つって言いました」
店員が僕を見た。
困った顔でもなく、怪しむ顔でもなかった。何かを思い出そうとする顔だった。彼は自分の手のひらを一度見て、それからケースを見て、それからレジの画面を見た。三つとも、自分がさっき何をしたかを確認する動きだった。
「あ、すみません」
彼はもうひとつを袋に入れた。
金額は変わらなかった。二つ分の値段が最初から画面に出ていた。
僕はそれを見た。見て何も言わなかった。
※
店を出るとき、自動ドアが閉まる直前に、後ろで店員がぽつりと何か言うのが聞こえた。
何を言ったのかは分からない。分からなかったが、僕はそれを聞かなかったことにして歩き出した。
外はもう暗かった。街灯の下を歩くと、自分の影が伸びて、縮んでまた伸びる。影はひとつしかない。それはいつものことだ。榛名は部屋にいる。だから影はひとつでいい。
三年前の秋も、こういう暗さだったと思う。
思って、僕はまた、目を逸らした。




