第1話 ……誰の分ですか、それ
目が覚めると、鍋の匂いがした。
昨夜の残りだ。白菜と豚と、それから彼女が最後に放り込んだうどん。台所で誰かが蓋を開ける音がして匂いが濃くなる。僕は布団の中で天井の木目を数え、七つ目まで数えたところで起きることにした。
六畳と四畳半、風呂は追い焚きなし、駅から徒歩十四分。中野のはずれにあるこのアパートに引っ越してもう五年になる。壁が薄いので、隣の部屋の人がいつ帰ってくるかまで分かる。分かるが顔は知らない。
「起きた?」
襖の向こうから声がした。
「起きた」
「じゃあ食べて。あっためたから」
望月榛名は僕より三十センチ低いところで生きている。正確には身長差は二十一センチなのだが、彼女はいつも僕の胸のあたりから喋りかけてくるので、体感ではそれくらいある。
襖を開けると、卓袱台の上に鍋がひとつと、茶碗がふたつ置かれていた。
「朝から鍋」
「昨日の鍋だから朝の鍋じゃない。昨日の続き」
理屈にはなっていない。彼女はそういう理屈の使い方をする。前に一度、それは詭弁だと言ったことがある。榛名は真面目な顔で頷いて、「うん、詭弁。でも合ってるでしょ」と言った。合ってはいなかった。
僕は箸を取った。うどんは伸びきっていて、汁を吸って倍くらいの太さになっている。豚肉はほとんど溶けかけていて、白菜の芯だけが妙に固い形を保っていた。
榛名は自分の茶碗に汁だけをよそって両手で包むように持った。彼女はいつもそうする。熱いものを手のひらで持って飲むまでに時間をかける。猫舌なんじゃなくて、あったかいのが減っていくのがもったいないのだと、本人は言っていた。
「今日、仕事は」
「ゲラが一本。夕方までに戻す」
「校正って何を直すの」
「直さない。指すだけ」
榛名が首を傾げた。ショートカットの、右側だけが寝癖で跳ねている。
「指すって」
「ここが揃っていません、って言う。直すのは書いた人の仕事」
「揃ってないのを見つけるだけでお金もらえるの」
「もらえる」
「いい商売」
「よくない。安い」
榛名は笑って汁をひとくち飲んだ。それから、それ以上は訊かなかった。
彼女はこういうところがある。三つ訊いて、四つ目は訊かない。
僕はその四つ目を、四年間ずっと待っている気がする。
※
昼過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。
岸田さんだった。三十歳、株式会社文字座の校正部、僕より四年先輩で、僕が会社を辞めて外注になってからも、こうして紙のゲラを直接持ってくる。メールで送ればいいものを、この人は歩いてくる。紙は人の手で渡すものだと思ってるんだよ、と本人は言うが、たぶん単に散歩が好きなだけだ。
「悪い、急ぎになった。明日の朝イチ」
「明日」
「明日。すまん」
僕はゲラの束を受け取った。四百ページ近い。背表紙になる予定の側を上にして持つと、指の腹に紙の重さが伝わってくる。この重さは画面では絶対に来ない。
「中で待ちます? お茶くらい出しますけど」
「じゃあ一杯だけ」
岸田さんは靴を脱いで、卓袱台の前に膝をついた。彼は座布団を使わない。人の家の座布団を使うのは申し訳ない、というのが理由らしい。この人の遠慮はいつも一段ずれている。
僕は台所で急須に湯を入れた。湯呑みを二つ出して、盆に載せて卓袱台に運ぶ。ひとつは岸田さんの前に、ひとつはその向かいに。
向かいには榛名が座っている。彼女は湯呑みを両手で包んで、いつものように、飲むまでに時間をかけはじめた。
岸田さんがゲラの束から顔を上げた。
視線が卓袱台の上を滑る。僕の湯呑み。急須。そして、榛名の手の中にあるはずの、もうひとつ。
岸田さんの目がそこで止まった。
止まったまま、動かなかった。一秒か、二秒か。彼は眉のあたりを一度だけ動かして、それから、なんでもないことを訊くときの声で言った。
「……誰の分ですか、それ」
湯呑みは卓袱台の上にあった。
なみなみと満ちて、湯気を立てて、一度も持ち上げられていない顔をしてそこにあった。
榛名の手の中にも、あった。




