第17話 あの部屋の壁は、僕が計算した
相模原までは電車とバスで二時間かかった。
覚えのある道だった。バスが山に入ると、携帯の電波が三本から一本になる。停留所は「基礎機構前」で、降りるのはいつも僕ひとりだった。
その日も、僕ひとりだった。
榛名は途中の駅から先へは来なかった。
「行かないの」
「行かない」
彼女は改札の内側で立ち止まってそれ以上は歩かなかった。
「なんで」
「怖いから」
それだけ言って彼女は柱の陰に入った。
※
正門は閉まっていた。
三年前は守衛所で入館証をもらえば誰でも入れた。榛名が渡してくれた。青いストラップの、写真のない札。
いまはゲートに自動改札のような装置がついていた。カードをかざす場所が三つある。守衛所の窓は閉じていて、インターホンだけが外に向いている。
僕はボタンを押した。
「はい」
「共同研究で以前お世話になっていた者ですが、資料の確認を」
「ご所属は」
僕は答えられなかった。
所属がない。三年前に無くしたのは彼女だけではなかった。
「一般の方の入構はお受けしておりません」
インターホンが切れた。
※
僕はフェンス沿いに歩いた。
敷地は広い。裏手の斜面まで回ると、建物が三棟だけ見えた。
いちばん奥の、窓のない棟。
あれだ。
僕はその形を知っている。図面で見た。壁の厚さは千二百ミリ。外から順に、鋼板、制振ゴム、鉛、真空層、無酸素銅、ミューメタル、また真空層。基礎は建屋から切り離して、独立した免震ブロックに載っている。
僕が数字を出した。
振動を切るための質量、熱を切るための真空度、電磁場を切るための透磁率。全部、僕のノートに書いてあった数字だ。
窓がないのは当たり前だ。
窓があったら、光が通る。
光が通れば、情報が漏れる。
情報が漏れれば、中身が外と相関する。相関したら、その時点で決まってしまう。
だから、窓を無くした。
僕が無くした。
※
斜面にしゃがみ込んだ。
吐き気がしたが何も出なかった。
三年前、僕はあの廊下で六時間、ガラスに手をついていたという。
だがあの棟に窓はない。
ガラスなど、無い。
僕は顔を上げた。
無い、と思っている。図面ではそうだ。設計上、あの壁に開口部はひとつしかない。人が出入りする扉だけだ。
では僕は何を見ていたのか。
※
その夜、部屋で修論の草稿を最初から読んだ。
三年前の自分の字は、いまの自分の字より少しだけ丁寧だった。図の番号の振り方も、単位の書き方も、几帳面すぎるくらい几帳面だ。
第四章に、扉の記述があった。
——扉部は遮蔽性能上の最弱点であり、外部相関の主たる経路となる。運用上、閉扉中の観測窓の設置は不可とする。
観測窓の設置は不可。
その一行の余白に、赤ボールペンで、細かい字が書き足されていた。
——ただし機構側の要求により、扉に観測窓(φ150、多層ガラス)を設置。相関漏洩は無視できない。反対意見書提出済。
僕はそのページを何度も撫でた。
窓はあった。
僕が反対して、それでも、つけられた窓だ。
直径十五センチの、丸い窓。
三年前の僕は六時間、そこに手をついていた。
※
紙をめくる指が止まった。
最後のページに、もう一行あった。
これは走り書きではなかった。定規を当てて、まっすぐ引いた線の上に書いてある。
——窓がある以上、外の観測者は「見てしまう」。
——ゆえに、開扉判断は、見た者以外が行うこと。
僕はその行を、声に出して読んだ。
読んで、それから、部屋の隅にいる榛名のほうを見た。
彼女は寝ていた。
膝を抱えたまま、壁にもたれて眠っていた。
寝息が聞こえた。




