第16話 箱の中と外で、事実が食い違う実験
「実験の名前は、WF‐3という」
宗像はほうじ茶を淹れ直してからそう言った。
「ダブリュー・エフ。ウィグナーズ・フレンド。ウィグナーの友人だ」
僕はその名前を知っている。
知らない物理屋はいない。教科書の、いちばん厄介な章の、いちばん厄介な節に出てくる思考実験だ。
「先生、あれは思考実験です」
「六十年はそうだった」
宗像は湯呑みを両手で包んだ。
「箱の中に、観測者を一人入れる。中の人間は装置の状態を測る。測れば、答えはひとつに決まる。中の人間にとっては、決まっている」
「はい」
「ところが、箱の外にいる人間から見ると、中の人間ごと、まだ決まっていない」
庭で風が鳴った。
「中の彼女にとっては、事実がある。外の我々にとっては、事実がない。どちらも理論的に正しい。この矛盾を六十年、みんな見て見ぬふりをしてきた」
「見て見ぬふりを、やめたんですか」
「機構は、やめた」
宗像は湯呑みを置いた。
※
「機構がやったのは、その状況を、人間で作ることだ」
僕は喉が渇いていた。茶に手が伸びなかった。
「箱の中の観測者が、確かに何かを見た。外の観測者はそれを見ていない。この二つが同時に成立している状態を、記録として残す。残れば、事実は観測者によって異なるという命題が、思考実験ではなくなる」
「そんなものを、なぜ」
「金が出たからだ」
宗像の口調は乾いていた。
「戸籍と、金融と、司法。事実が二重になると、いちばん困るのはそこだ。困る側はそれが起きうるかどうかを、真剣に知りたがる」
僕は郡司の名刺を思い出した。
昭和五十四年から、ある部署。
「先生は、反対したんですか」
「した」
「でも、共同研究は続けた」
「続けた」
宗像は初めて目を伏せた。
「反対したうえで続けた。それが私のやったことだ」
※
僕はまだ核心を訊いていなかった。
訊けば、たぶん、いままで見なかったことにしてきたものが全部こちらへ来る。
それでも訊いた。
「僕はその実験の、何を担当していたんですか」
宗像は答えなかった。
答える代わりに、立ち上がって、隣の部屋から一冊のファイルを持ってきた。
背表紙に、僕の字で「修論・草稿」と書いてあった。
「お前が置いていったものだ。研究室の棚に、三年入っていた」
僕はそれを受け取った。
開いた。
一ページ目に、題目が印字されていた。
——多層構造による外部相関の長時間遮断——十時間級デコヒーレンス遮蔽の設計と評価
※
喉の奥が鳴った。
「覚えているか」
宗像が言った。
「覚えています」
覚えていた。忘れるわけがない。二年半、それだけをやった。箱の中身が外の世界と情報をやりとりしないようにするには、壁を何層にすればいいか。振動を、熱を、電磁場を、どうやって切るか。数字を出して、材料を試してまた数字を出した。
僕は遮蔽の設計をしていた。
中身を外から切り離す、その方法だけを、二年半。
「あの部屋の壁は」
僕の声は自分でも聞き取りにくかった。
「あの部屋の壁は、なんですか」
宗像は庭の椿を見た。
見たまま、言った。
「お前の計算で決まった」
僕はファイルを取り落とした。
紙が畳の上で滑って途中のページが開いた。
そこには、僕の字で、赤いボールペンの走り書きがあった。三年前の僕が自分のために書いたメモだった。
——内部に人を置く場合、外部観測者は事後に開扉しないこと。
その下に、もう一行。
——開けた時点で決まる。




